知り合った全員と仲良くならなくてもいいんだ
最近、美容院でお願いしているのはかなりさっぱりしたショートヘア。前髪は長めでサイドや後ろは短め。そういう感じは好きではあったのだけど、ポイントは「サングラスが似合う感じにして欲しい」というところ。
わたしは視覚過敏やら謎のまぶしさやらにずっと悩んでいて、しっかり見ようとすると目つきが悪くなってしまう。人に心配されて、それでまた自分も気にしたりすることがどうしても減らなくて悩んでいた。でも、もう実際につらくてどうしようもないので、ようやくサングラスをかけるようになった。
どうもサングラスってカッコつけてる感じになっちゃうというか、なんか気恥ずかしさもあって、最初はクリアサングラスを買った。でも目元が暗いと気持ちも目も落ち着くと気づいた。
そして、「相手から自分の目が見えづらい」というのも気持ちの落ち着きにつながっているのかもしれないと気づいた。
サッカーの中村俊輔選手は若い頃、今よりもっと前髪が長くて厚めだったけど、あえてそうしていたらしい。「自分のプレーの意図を相手に読まれたくない」と言っていたとどこかで読んだ。確かBUMP OF CHIKENのボーカルの藤原基央さんも人と目を合わせることと髪型の関連について言っていた気がする。
「もっと人と目を合わせて、思っていることを伝えて、みんな仲良くしようね」
みたいな教育ってわたしはずっと小さな頃からされている気がするけど、未だにそうなんだろうか。もちろん「みんなと仲良く」できたらいいけれど、みんながみんなそれが心地いいとはわたしは思わないし、強制されるものでもないんじゃないかと思う。人見知りするとか、大人数が苦手とか、「コミュニケーション」に対して苦手意識がある人にも同じ教えなのはだいぶしんどい気がする。たとえ周りからしんどそうに見えなくても。
かくいうわたしも大人になってからは「フレンドリーな人ですね!」なんて言われるようになっていたけれど、小さい頃は人見知りだった。それでつらい思いをしたことがあったりして「フレンドリーな方が得だな」みたいに研究していただけだ。でもそうすると逆につらい思いをすることが増えた。もともとの顔立ちや声質にどうも強そうなイメージを持たれるのに、中身は真逆だったからだ。
わたしの「気にしてしまう性格」は、どうも外見に透けづらい。外見を変えようと四苦八苦したけどできなかったから、そういう意味でもサングラスをしていると心理的にも守られている感じがするのかもしれない。
そもそも、そんなに「本音で語り合いたい人」なんて、自分の周りに何人いるだろうか。別に誰かに「あなたはただの知り合いです」なんて言う必要もないのだから、自分の中で決めておけばいい、と思って考えた。
わたしは基本的にはおしゃべりだし、人と話すのは大好きだ。でも人と話すとなると色々と気遣わないといけないところもある。本当にいつも小さなことで悩むから、どうしてもすぐ疲れてしまう。
「この人は友達と思ったりそう言っていいんだろうか」
「この人は仕事で知り合った関係だけど、どれくらいフランクに話してもいいんだろうか」
「この人は年上だから、相手はタメ口で話してくるけどわたしはやっぱり敬語がいいんだろうか。それともフレンドリーな感じで少しカジュアルな方がいいんだろうか」
相手のことを知りたい、話がしたいという好奇心と、失礼にならないようにしたい、傷つけたり傷付いたりしたくないという思いが、壊れた時計みたいにガチャガチャする。それでも「みんなと仲良く」がいいと思っていたから、頑張って頑張って、疲れてしまった。
じゃあ大切な人とだけ向き合おう、って考えたら、それもまた難しかった。大切な人だからこそ、自分の気持ちを伝えるのが怖いし、どんなリアクションがくるか分からなくて怖い。傷つくレベルが強くなってしまう。
もう怖くて怖くて、わたしはいつもSNSにかじりついていた。その中に特定の人がいたらぼかして書いたり、それをまた別の場所に書いたり、誰かに陰口を言ったり。
わたしにとっては「大切な誰か」に向き合って悲しい思いをするより、不特定多数に対して悩みや愚痴を書いた方がまだ気が楽だった。不快だと思う人は去ってくれるだろうし、とずいぶん受け身でいながら、大量の人と会っていた。
わたしの「メンタルへろへろな部分」をよく理解してくれている人もまわりにいる。そんな人にも、どこまで重みをかけていいか分からずに、勇気を出して自分の思いを伝えてみたり、できなくて苦しんでみたり、今もまだ練習中だ。人生は長くてしんどい。人間は本当にややこしくて難しい。