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「感覚派」のジレンマ

今日は偏頭痛で休みつつ、起きたら本を読み、しんどくなったら眠ったりしていた。そのあたりで改めて調べ直してみたのが「論理的思考」のこと。

わたしは、つい昨年くらいに「実は近い人と全くコミュニケーションが取れていなかったと伝えられる」という経験をするまで、自分がこんなにも感覚派なつもりはなかった。デザインをしていたときは考えて説明ができたし、自分が特に力を入れてやってきたことに関してはそれなりに人に伝えられると思っていた。

でもある日「あなたの話は、長いしものすごく話が飛ぶし、着地点が分からない。終わりのないマラソンを見させられている気分」と言われてショックを受けて泣いてしまったことがあった。

その頃すっかりデザインから離れてアーティストへの道を歩き始めたから、余計に表現欲求が説明を抽象的にしていたのかもしれない。

「まず結論から話してくれ」と言われても話したいことが多すぎて絞り込めないし、話し始めるとまた話が破綻していないか緊張してうまく話ができなくて自信を失うし、一時期はもう誰とも何も話したくないとほとんど誰とも連絡を取っていなかった。

それから、あれこれ調べると、自分が思った以上に感覚派(右脳派)で、直感で動き、「なんとなく」とか「これがいい感じがする」みたいな言葉遣いをしていることにも気づいた。そして、感覚派をガラッと論理派に変えるのではなく、感覚派だけだと行き詰まるときもあるし、説明がスムーズにいくように論理派のちょっとしたテクニックを使ってみたりした。(マインドマップを描くとブランチの量がひどくて毎回引く)

それから論理的に話すことは少し上達したみたいで、結論から話すでもツイートするでも、アウトプットの流れを心がけてみると、自分自身の言いたいこともだいぶシンプルになるんだと気づいた。

でも、それが、最近なんだか寂しい。

論理的に、シンプルに、と心がけていると、自分自身が本来いつも「ワクワク」で決めていたことが無くなってしまいそうな恐怖感に襲われる。パンパンの脳から無作為に出てくるアイディアを良くも悪くもどんどん試してみるのが好きだけど、現実的じゃないことも多いので、「目標を細分化したほうがいい」と知ってやるようにしている。これでステップを踏めると頭では分かるのだけど、目標通りに進むのは楽しく思えなくて、正しいはずなのにすごくションボリしてくる。

わたしの感覚的な話し方を気の合う友達に相談したら「確かに紆余曲折するのは分かるけど、軸ははっきりしてるからね。その上で揺れ動くだけだから全然聴けるけど」と言われたけれど、みんながみんな同じように感じるわけじゃないのもわかる。

そこで、このnoteを見かけて、少し泣いた。

特にアートをする上で考える「孤独であること」にも触れられていて、自分から進んだ道なのだけども、1人の時間を持たなければじっくり考えることができない時もあるし、そもそも制作時間は短かろうと長かろうとほとんどが1人の時間。社会と共存できなくてアートに寄ったので、子どもの頃から本音を言えず仕事がうまくいかずなわたしには、これしかないとも言えるし、ダメだったらもう後がないとも言える。

感覚派って、圧倒的な個な気がします。それが音楽や小説や絵画や映画や、いろんなアートにまで研ぎ澄まされると人類の宝になります。ただ、多くの圧倒的な個は孤独であり、社会との共存ができなければさらに内側に閉じこもることになるのかも知れません。

アイディアを出さなきゃなんて思い詰めると出ないのがアイディアなのは知っているけれど、心身の調子が悪い時や思ったような作品が作れないときは、夜中に目覚めてしまったときのような身動きが取れない不安を感じる。

自分の中に「これなら人に伝えられる」という部分はありつつも、それでも人に「これなんだろう?」と思うものを作りたいと思っていて、なおかつわたし個人は理解されにくい、というのがどうしようもなくやるせなくなるときがある。それでも、こうして優しい視点で感覚派の人たちを見つめてくれる方がいるとこれまた涙が出てくる。

複雑で、よくわからない、ワクワクする、気になるものを愛するわたしには、このジレンマはなかなか堪える。

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