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ジェコが語るW杯初出場、祖国ボスニア、イヴィツァ・オシム②(原題:「初めてのW杯を我が祖国に捧ぐ」)

 (前編より続く)
 ジェコの言葉は正しい。サラエボを初めて訪れた人がまず驚かされるのは、あまりにも生々しい戦争の傷跡だ。

 建物の壁には弾痕が残り、目抜き通りには人々が突如として命を奪われた場所を示す、赤い花びらのようなレリーフが点在する。そして市街を取り囲む丘陵や山々に並ぶ、おびただしい数の白い十字架。旧ユーゴスラビア解体に伴って発生した3年半の内戦は、20万人の死者と200万人の難民だけでなく、民族浄化なる忌まわしい単語さえ生みだした。 

 むろん戦争はこの瞬間にも世界各地で続いているが、少なくともヨーロッパ圏において、サラエボが近代戦争、しかも陰惨な内戦の痕跡を最もとどめている地域の一つであるのは間違いない。

 6歳から9歳までの僕には、戦争の記憶しかない。毎日、爆弾が爆発する音や砲撃や銃撃の音が聞こえてきたし、自分はまだ小さかったから、いつも怖くて泣いてばかりいたよ。

 僕たち家族はサラエボに住んでいたんだけど、1992年には戦火が迫ってきて、住んでいた家を離れなければならなくなった。その後は、祖父母のアパートで暮らすことを余儀なくされたんだ。地下にあるワンベッドルームの部屋で、広さは35平方メートルくらいしかなかったと思う。でも戦火を逃れてきた人たちが大勢集まってきたから、多い時には15人もの人が寝泊まりしていた。

庶民的な土産物屋やレストランが軒を連ねる旧市街。こんな場所にも、無残な戦争の痕跡が残っていた。壁に空いた穴はマシンガンの弾痕である

 僕は戦争で友達や親戚を大勢亡くしたし、個人的にも命拾いをした。ある時、友達と一緒に荒れ地でサッカーをしていたら、母親がすごく心配して止めさせてくれてね。そしたらその直後に、僕達がさっきまでボールを蹴っていた場所に爆弾が落ちて……。戦争が終わった時にまず感じたのは、これでもう恐怖に怯えたり、命の心配をする必要がなくなったということだった。  

 僕は基本的に子供の頃の忌まわしい出来事を、あまり思い出したりしないようにしている。大変な経験ではあったけど、悲しい想いをした人は、数えきれないほどいる。それに今はボスニア国民の一人として、前に向かって歩みだそうとしているわけだから、戦争のことを振り返りたくはないんだよ。

 でも、こういう記憶は永遠にぬぐい去れない。戦争を実際に体験した人間で、当時のことを忘れられる人なんて誰もいないと思う。

ユーゴ独立紛争直後のゼレスニチャールのスタジアム。激しい攻撃のため、外壁や骨組みを残して多くの部分が焼け落ちてしまっていたことが見て取れる

 現在ジェコは、UNICEF の親善大使としての活動にも力を注いでいる。それは悲しい歴史を繰り返さないための、ジェコならではの取り組みでもある。

 親善大使にならないかと打診された時、僕は UNICEF のスタッフから、「君ならば誰からも受け入れられるだろうから」という説明を受けた。正直に言えば、そんな説明を受けなければならない状況自体が悲しかった。ボスニアの人々の間に、目に見えない壁が今も存在していることの裏返しだからね。

 親善大使の役割は、社会を融合させていくことなんだ。それは一般の人々の意識を、スポーツを通して変えていく試みにもなる。僕は自分なりにできることをやっていきたい。時間を見つけて、ボスニアの学校を訪問したりするのもそうだね。僕は子供達に平和の大切さを伝えていきたい。子供達こそは国の未来を決める存在なんだよ。

 子供に対する関心が高いのは、おそらく本人の経験を反映しているのだろう。ジェコはやがてシェフチェンコに憧れ、サッカー選手を目指すようになるが、10歳になるまでは、まともに練習をした覚えがないという。幸いにして平和がもたらされた今日では、サラエボでも幼い子供たちがサッカーに興ずる光景を時折見かけるようになった。しかしジェコによれば、課題は山積している。

 学校に行くと、自分がやらなければならないことが、いかに多く残っているかを痛感させられるんだ。ボスニアの学校は、(民族間で)グループごとに分かれているところが多い。ボスニア人の子供とクロアチア人の子供はお互いを避け合っているし、絶対に交わろうとしない。同じ建物の中に、まるで二つの学校があるみたいだよ。

 こういう状況を変えていくのは並大抵のことじゃない。かなり時間もかかると思う。あの戦争は民族間の不信感や嫌悪感から始まったけど、人々の心の中には悪魔のような負の感情が燻り続けているんだ。

この写真はマケドニアの小学校を撮影したもの。ボスニア同様、民族対立は学校教育にも深刻な影響を及ぼしている(『ウルトラス』所収)

 でも僕は諦めない。だから学校を訪問した時には、名前(民族)の違いや宗派――ムスリム教徒や正教徒、カトリック教徒の違いになんて囚われなくていい。大事なのは個人なんだって言い聞かせ続けている。

 子供達と話す時には、マンチェスター・シティのこともよく例に出すんだ。僕の大親友であるアレクサンダル・コラロフは、セルビア人だよってね。たしかに彼はセルビア人で僕はボスニア人だし、お互いの国は過去に戦争をしている。でも僕にとってそれ以上に重要なのは、アレクサンダルが、人として単純に素晴らしいということなんだ。

 シティには、他にも旧ユーゴ出身の選手が2人いる(セルビア代表のナスタシッチ、モンテネグロ代表のヨベティッチ)。僕らはいつもつるんでいるし、個人的には、さらにクロアチアの選手がチームに加わってくればいいと思っているくらいさ。 (続編へ)

2013年8月、シティのホームゲーム、ニューカッスル戦で配布されたマッチデー・プログラムから。ジェコはキャプテンのコンパニ、ダビド・シルバなどと共に、様々な国籍の選手から成るチームにあって精神的な意味でも大黒柱となっていた

(文中敬称略。初出:Sports Graphic Number 842号)


ジェコが語るW杯初出場、祖国ボスニア、イヴィツァ・オシム
ジェコが語るW杯初出場、祖国ボスニア、イヴィツァ・オシム①

『ウルトラス 世界最凶のゴール裏ジャーニー』



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