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サッカーが与える絶望と希望。ティトー、ユーゴ内戦、そしてオシム 5/9

#5: そして「東欧のブラジル」は消滅した

■W杯90年大会で披露したポテンシャル

皮肉なことに、ユーゴサッカー界の頂点に立つ代表チームは、モザイク国家の脆さを体現する存在にもなっていた。それは選手の「国籍」を見ても簡単に理解できる。テクニックやスキルのレベルがきわめて高く、攻撃的なサッカーを展開する「東欧のブラジル」は、セルビア(ストイコヴィッチ等)、クロアチア(ボバン等)、モンテネグロ(サヴィチェヴィッチ等)、ボスニア(スシッチ等)、マケドニア(パンチェフ等)、スロベニア(カタネツ等)の選手たちで構成された混成軍になっていた。

たしかに個性派揃いだったため、選手が衝突しやすいのではないかとも囁かれていた。だが少なくとも1990年まで、イヴィツァ・オシムが率いるチームは比較的順調に機能していた。事実、6月から行われたW杯イタリア大会では、グループDを2位で通過。決勝トーナメント初戦では、延長の末にスペインを2-1で下している。

続く2回戦は、マラドーナを擁するアルゼンチンと対戦。最終的にPK戦で敗れたものの、ユーゴは持てる能力の高さを強烈にアピールした。退場者を出して10人になったにもかかわらず、W杯の前回大会を制していた王者相手に一歩も引かなかったからだ。かくしてユーゴ代表は、2年後にスウェーデンで開催されるEURO92に向けて、優勝候補の一角に挙げられる。94年のW杯アメリカ大会でも、上位に食い込むだろうと目されていた。

黄金世代の登場と共に、一気に高まっていった期待感

■母国の国歌にブーイングを浴びせるサポーター

ところがW杯イタリア大会は、ユーゴ代表が名を連ねた最後の国際大会になってしまう。選手たちは地元で肩身の狭い思いをしながらも招集に応じていたし、W杯では強烈なインパクトを与えることに成功した。しかし各共和国のサポーターは、代表の試合においても、露骨に民族主義をアピールするようになっていたからである。

たとえば90年6月3日、W杯イタリア大会の直前に行われたオランダとの親善試合では、クロアチア系の2万人の観客が、ユーゴの国歌にブーイングを浴びせる事件も起きていた。ちなみに会場となったのは、その1か月前にディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラード戦で暴動が発生したのと同じ場所、ザグレブのマクシミールである。ボスニア生まれのサッカー選手で、ユーゴ代表で10年間プレーし続けたファルク・ハジベギッチは、英誌『フォー・フォー・ツー』に語っている。

「あれは現実とは思えないような体験だった。僕は国歌斉唱でブーイングされ、ショックを受けたのを覚えている。9ヶ月前、同じスタジアムでは4万人以上の観客が熱狂的に応援してくれたし、その後押しを受けて、スコットランドとの試合(W杯90年大会予選)に3-1で勝っていたわけだからね」

■サラエヴォ包囲がもたらしたもの

このような状況は、続くEURO92の予選においても、代表メンバーの招集や起用に深刻な影響を及ぼす。だがオシムは懸命にかじ取りをしながらチームを指揮。最終的には7勝1敗の成績を収め、難敵デンマークを抑えてグループ首位で本大会へのチケットを確保した。

ところが大会開幕を間近に控えた92年4月5日、決定的な出来事が起きる。セルビアを主体とするユーゴ人民軍、そしてボスニア内のセルビア人勢力が樹立した「スルプスカ」という国家の連合部隊が、建国を宣言したばかりのボスニアの首都、サラエヴォを包囲して攻撃し始めたのである。

ボスニア独立紛争中に掘られた「希望のトンネル」。
周囲を包囲されたサラエヴォ市民は、市内から包囲網の外へ抜けるトンネルを掘り、食料や医薬品、武器・弾薬、人員、燃料などの搬送を密かに行っていた。スコップやつるはしで掘られた約1キロ近い長さのトンネルは、まさに命と希望をつなぐための最後のライフラインだった
(写真提供:Shutterstock)

当時、オシムはユーゴ代表の監督を務める一方、セルビアのパルチザンで監督を務めていた。だが5月22日、パルチザンの監督として91-92シーズンのカップ戦を制した後に職を辞し、代表チームからも手を引く。

約1週間後、FIFAとUEFAは国連の制裁決議に応じる形で、ユーゴ代表が国際試合に出場することを全面的に禁止する。選手たちはスウェーデンに到着していながら入国を認められず、空港で数日間待機させられた後、帰国する羽目になった。

■「僕たちはデンマークよりも、はるかに強かった」

皮肉なことにEURO92で優勝したのは、ユーゴに代わって急遽招集されたチーム、予選において2位に甘んじていたデンマークだった。

むろん勝負ごとに「if (たられば)」は禁物だ。とはいえユーゴが出場していたならば、優勝を狙える可能性は十分にあっただろう。
やはりかつての代表メンバーで、現在シェフィールド・ユナイテッドの監督を務めるスラヴィシャ・ヨカノヴィッチは、こう断言している。
「僕たちのチームは、(優勝した)デンマークよりもはるかに強かった」

「僕たちのチームは、(優勝した)デンマークよりもはるかに強かった」(スラヴィシャ・ヨカノヴィッチ)

■世界地図から消滅していく国家と「東欧のブラジル」

同じことはW杯についても指摘できる。後にクロアチアは、自国の選手のみを擁した単独チームで、98年W杯フランス大会で3位に入賞。しかもシューケルは、大会得点王にまで輝いている。
ましてやかつてのユーゴ代表は、クロアチアとは比較にならないほど分厚い選手層を誇っていた。そのようなタレント集団が、最も勢いのある状態で4年前のアメリカ大会に参戦していたならば、クロアチアをさらに上回る成績を残していたはずだと主張する人は多い。

ユーゴ代表を実際に待ち受けていたシナリオ

だが「東欧のブラジル」を巡る「if」は、永遠の「if」のまま終わってしまう。そしてユーゴでは、各共和国の独立に伴う紛争が激化。代表チームと同じように崩壊し、世界地図から消滅していったのである。

 (文中敬称略)
 (写真撮影/スライド作成:著者)

前編:#4:サッカーという名の「劇薬」

次編:#6:ボスニアを襲った新たな危機


『ウルトラス 世界最凶のゴール裏ジャーニー』


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