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集合意識の遊び心

※本ブログは3度繰り返して読んでいただくと情報が有益なレベルにまで浸透します。

小説やアニメの典型的なパターンというものがある。それは異なる種族同士が争っているところから物語が始まり、一つの大きな目的の為に、いがみ合いながらも何だかんだ最終的にはまとまってその大目的を完遂するというパターンだ。

異なる種族というのはそれぞれのローカルルール、囚われが各自にある為、それは客観的な視点ではなく、大概が昔から云い伝えられてきた伝統的な一族としての被害者意識である。だいたい「私たちは彼らにこんな酷いことをされたから、絶対にあいつらとは関わってはいけない。何をされるかわからない」という様な類いのこと。

そんなローカルな縛りが効いている狭い世界の中で、一人の変わり者(愚者・Fool)扱いされる人物が登場する。彼がローカル界から飛び出し、冒険の末により太極的な情報を持ち帰ってくことでローカル界は揺らぎ始める。かつてはバカにしていた変わり者がもたらす影響力に自分達の生活も恩恵を受けるようになってくると、いよいよその変わり者が実は勇者だったと村人たちは気がつく、という展開だ。しかしもしこの時に、ローカル界の中のカルマや執着があまりにも強いと、その勇者を殺してしまったり、結局、もたらされた新しい情報を上層部だけが独り占めする様なパターンへとハマっていったりする。

もうお気づきだと思うが、この構図は実社会のありとあらゆるところに溢れている。一つの企業には必ずライバル企業と内部に少数の変わり者がいる。学校のクラスメイトの中にも変人扱いされている生徒がいる。科学者たちの間には派閥があり、その中には一定数、必ず業界の枠を超えて禁忌ばかりを研究対象にしたがるマッドな人間がいる。この変わり者たちを私は“集合意識の遊び”と捉えている。

企業には売り上げ目標、学校には偏差値、研究者には学界からの論文評価、国にはGDPといった、そのカテゴリー別にローカルの正義となる独特の評価基準が存在している。その評価基準をほとんど気にしないで好き放題にやりまくっている人々のことだ。

ここで“求道”(ぐどう)とは宗教的な道(ミチ)を求めて進むことをさす言葉だが、これは実は愚道(ぐどう)であり未知(ミチ)を求めて進むことと同義だということを考えてみよう。するとこの様な集合意識の遊び心を持っている人々のことが違って見ててくるはずだ。

愚者・大バカ者の一見あさってなランダム性は結局のところ「合法則的不規則性」によって求道者へとトランスフォームされていく。そして最終的にめぐり巡って出発地点に帰ってくる頃にはそのローカル界においての覚者になっているということだ。

ここまでで、我々の身の回りにいる一見、愚かに見えるその人の行動をローカルが持っている既成概念に当てはめて考えない様にすることは勿論大切だが、何よりも尊重すべきは自分自身の中にある、直接的な生産性の見込めない未知の魅力へとダイブする素直な気持ちである。

あなたは飛び出すことで堕ちてしまうと怖れるかもしれない、しかしかつて湖の上を歩いてきたイエスは弟子のペトロに対してこう言った。「なぜ疑った、信仰の薄き者よ。」この場合、信仰とはなんだろう?それは未知の道を進むことに対しての法則的安全性への確信である。遊び心を持って異世界に飛び出してみることは突き抜けていくとそのまま覚醒へと繋がっているのである。


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