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検索のように誰もがAIを使うようになる時、そうなる前の考察

最近のことについて、いろいろが混じったエッセイとして。

7月の後半は、学位論文の構想発表会というものがある。学生のプレゼンと質疑応答を一日かけて行う。それが二日か三日あって、そのときには京都に泊まる。

学生が特定のテーマに狙いを定め、調べ、考察し、論文を書く。それは以前と同じことをしているように見えるが、当然ある時期から調べ物にはネット検索が入っているし、電子化された資料を扱うことも増えている。そして今後は、AIによる生成や分析が部分的に入ってくることになるだろう。

状況を見ていて思うのだが、学習の元データと生成モデルは概念的に区別されるわけで、あくまでも抽象化された数値列としてのモデルを自由に運用できるようにしていきたいというのが、おそらくもう人類史的な意思なのではないかという流れを感じる。著作物とは何なのかということ自体が揺れている。著作権を固め確保するというのは近代化において重要な一面であり、それが近代的主体性とも結びついていたわけだが。

ポストモダンという言葉の古さはいかんともしがたいものがあるが、それに対する80-90年代文化的あれこれはまったく抜きにするなら、インターネット、SNS、ユーチューバーとして身を立てていくこと、暗号通貨、そして生成AIといったものは、すべて「まさしくザ・ポストモダン」と、ごく端的に、記述的に認定すべき事象である。ポストモダン化はだんだんと、私的にも公的にも進行しており、まだ途上である。「近代的に守られていたもの」は、さらに解体されていくだろう。

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