倒錯とASD
昨日の研究会で考えたことをメモ。(まだ仮の話、実験的な考察。)
昨日は精神科医の内海健さんのプレゼン:ミシェル・トゥルニエの『フライデー、あるいは太平洋の冥界』、およびそれに対するドゥルーズの批評「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」は、ASD(自閉スペクトラム症)的な経験を描き、分析したものとして読める、とのこと。それはわかる。無人島に取り残されたロビンソンからは共同主観的な世界経験を支える「他者−構造」がなくなり、奥行きの知覚を失い、すべてが表面だけになる……。最初、それは自らを脅かす経験なのだが、次第にその脅かされるところの主体が放棄されていき、ロビンソンは無人島の事物と一体化していく。
と、だいたいそうした話で、『動きすぎてはいけない』のエピローグもこの話。で、ドゥルーズはそれを「倒錯」の経験だとするのだが、内海さんによれば、これはひじょうにASD的である(奥行き知覚の不在などが典型的)。
ここでは図式的に、ASD的な状態がドゥルーズでは倒錯と呼ばれること、「ASDと倒錯の対応」に注目したい。この対応を、どのように意味づけるか。
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