見出し画像

メタモルフォーゼする身体、26年目の冷蔵庫、汁、いなり寿司、イチゴ

結婚した時に冷蔵庫を買った。すでに26年目である。洗濯機も壊れたので一緒に買うことになった。娘のボーナスのおかげである。数年前に新潟に仕事を見つけて一緒に暮らし始めた頃は随分つらそうであったが会社に居場所が見つかったようである。どこまで長い居場所かわからないが、誰もが一生をかけて自分の居場所を探す。僕の居場所はここで終わりであろうや。

年寄りにはもったいない冷蔵庫である。退職金だと思うと感無量である。
せめて家族が元気で生きていける食事を作ろうと思う。

体調は相当悪くてどうなることか。足の浮腫は少し落ち着いているが吐き気た止まらなくて起きるのも辛い。足の様子だけではなく全身的な倦怠感が酷い。これは会社を潰そうと決心したこととは無関係ではないだろう。
足の先端は随分良くなった。足の甲の当たりはも少し腫れが引いたが、フクロハギが随分悪い。だんだん上がってくるようである。肩口に「湿疹」が大きく出てきた。膝の内側も同じようである。一つ一つの「症状」に対してはそれなりに対処があるだろう。しかし、それは破壊する方向へと向かう。
一生離れられない投薬や取り返しのつかない破壊を行うだけである。ボヤを消すために家を水浸しにするようなものである。

先日、医師の友人と話をした。糖尿病に向きあった時に色々とお話をした方だ。当時A1cが12.3%から6.5%まで落としたときの経緯をご存知の方である。そのときにお話しながら考えた。

僕の今の状態は「病気」ではない。そもそも「病気」というのは「病因」があり、解決することで元に戻る疾患を指す。
具体的には「感染症」「中毒症」「欠乏症」の3種類といえる(「物理的な損傷」は除く)。
感染症は身体の内外に生息するマイクロバイオームが身体を食い荒らす現象である。梅毒やコレラ、結核などのが病因である。病因が生命活動を行うことで症状を起こすのだ。いずれもマイクロバイオームを叩く又は耐性を持つことで凌ぐことが出来る。
中毒症は身体というコロニーの内で特定の化学反応を阻害・促進する「代謝物」や「無機物」に接することで始まる。青酸カリや一酸化炭素を考えればいい。
欠乏症は皆さんご存知のビタミンを始めとする「ミネラル・代謝物」である。これの特徴は「食物連鎖」の道のりから生命が見つけているものだということである。ビタミンCを必須にしているのは一部の猿と人のみである。犬は自分の身体で作ることが出来る。


「老化や成長」はこの類型のどれでもない。
僕はこの状態をメタモルフォーゼではないかと考えている。身体全体においての「生命の組み換え」が起こっているのだ。
多くの組織・臓器は綱に破壊されながら作られている。そのプロセスで新しい世界へ適応していくのである。新たな世界に向き合うための代謝系を得ることもあるだろうし不要とな生命をリストラする(笑)。
身体が世界に対して「変化」しながら適応していくための当たり前の反応なのだ。子供が大人となり、やがて更年期となり老人となる。一人一人異なった道筋を経て進む。サンゴ礁が2つとして同じ姿を見せないように私達も二人として同じ姿の生命はない。

メタモルフォーゼは生まれた瞬間(受精した瞬間)から連続的に起こっている。そして、「マクロな身体」は水に満ちた堰が時が来た時に決壊するように「破綻と再生」を迎えるのだ。

やがて死に追いつかれるまで「私と言う生命のコロニー」の内側では「無数のマイクロバイオームが生と死」を繰り返す。


そう考えると今私達を恐怖に陥れている多くの「病」というものは「生」の一つの形であり、「病因」を探すこと自身が無理筋である。
ガンは細胞が持っているライフサイクルから逸脱して起こるものであるし、リュウマチや骨変形は骨格が新たな形へと変わろうとする時に起きる。「高血圧・高血糖・高尿酸・高中性脂肪」はよく効く薬があるがこれは検査値だけのフェイクな病である。やがて来る致命的な損傷や組織の損傷を防ぐものではない。検査で薬は処方されるが、4つの検査値とやがて来る組織の損傷についての因果関係は見つかっていない。疫学的な「因果関係」は見つかっていると政治的に正しい医学は言うが、今や「商品化された食事が生んでいる私達の検査値」が正常値の範囲から「それていく」のは当たり前の状態である。こういう状態を「相関関係」と呼ぶ。


「難病・膠原病」と言われる身体の各所に起こる「炎症」を僕は身体のパーツの問題と思っている。身体は細胞膜に複雑に織り込まれたタンパク質によって細胞として形を持っている。
「政治的に正しい栄養学」では身体の中で使われるタンパク質を私達は0から作ることが出来ると信じられている。この信念の後ろ側には「人」は偉大だから全てのパーツを自分で作っているのだと言う思い込みがある。
ではなぜ「必須栄養素」などという「生命の手抜き」が生じたのだろうか?

生命は狡猾である。できるだけコスト少なく「下請け」を絞り、優秀な部品を得ることで良く生きようとする。「必須栄養素」という発見は偉大なドラマが有った。僕は最好きである。しかし、そこで止まってはならない。

一人一人にとって必要な食事は違うのである。年齢や食べ合わせ、心の状態や家族の笑顔。フードサプライチェーンで作られた「長い賞味期限を持ったバイキンさえも食べない商品」では碌な目に合わない。

僕の「レシピ」は、誰にでも効果の有る魔法の商品ではない。

家族一人一人が、「自分らしく生きる」ために食事に向き合う姿を見つけたい。


今日は具合が悪かったので、妻が「汁」を作ってくれた。
朝から食べれなくて、冷蔵庫の搬入の後ダウンしてしまった。
夕方作ってくれたので目が覚めたので食べた。

妻が料理をしたのは久しぶりである。
僕の味付けではない。それが良いのだ。
顆粒だしを嫌い味噌を弱目にして醤油でけんちん風に仕立てる。
人の作る料理は嬉しいものである。

だんだん、お腹が空いてきて、稲荷寿司が食べたいとお願いしたら、買ってきてくれた。

病気をしたときにはイチゴも食える。美味しい。
食洗機を回して、少し寝よう。
嬉しい。

2023/04/30




厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。