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料理・食事に関してのエトセトラのnote

料理や食事のことを描いたnoteって結構あることに気がついた。後で読みたくなっても波間に隠れることも多いので、集めておくことにした。

「食事とセックス」は混沌な世界から「家族という線引」を行う。だから裏切り者は強く処罰される。不倫と結婚の線引は流れる淵に浮かぶアブクのようなものだ。人間は、それぞれ異なった場所において命をえ、いつか人生の海へ合流する。その海は、いつの時代においても、荒れくるい、凪ぐことをしらない……。

写真は1958年くらいだと思う。僕はまだ生まれていない。母の実家のお祝いを父が撮影している。みな、それぞれに現実に向かい合いながら自分らしく生きようとしている。そして自分と同じくらい家族を大事にしていた。自分の一部だったのだ(注)。

そして、どこの家族にもに属することなく生きる人もいた。悪いことではない。家族とはシェルターでありながら檻でもある。家族皆が死んでしまったら一人になる他ない。頑固親父が追い出されることもあったっだろう。日本が世界に名だたる「霊長類研究=サル山観察」を考えれば分かる。いずれにしても人は最後には孤独に一人死ぬ他ないのだ。

いまやその機能は行政を通してなぞられ、お粗末な機能の模倣が外注化されている。

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料理・食事のルールをソシュールの言語モデル的に考えている。そして私たちの苦しみをを説明できる仮説(=存在の意味)を知りたいのだ。僕はガリガリの実存的構造論者である。(注)

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好きなnote闘病の方々酒情報料理・食事

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YOU ARE WHAT YOU EAT and SEX

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今度行きたい。

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こういうテイストってスキだなあ。カレー作らなくっちゃ。


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食事作りを楽しんでいらっしゃる。人生はこうでなければ。

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家事分担は難しい。考えること仕切りである。

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食事作りが素敵だ。共感することが多い。

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実家から野菜が送られてくるとは、恐ろしい。しかし、考えてみると僕の母はいつも何か送ってきてくれていたなあ。米やお歳暮のハム(これは毒と書かれていた)宅急便が来るのが楽しみだった。料理作りは難しい。

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大賛成!体験が自分を変えるというのは素晴らしいことです。

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「いただきます」と「ごちそうさま」

このお話にはハッとした。僕の妻は「いただきます」も「ごちそうさま」も言わないのだ。僕が料理を作りはじめたときにまず喧嘩になった。僕が料理を作ることが気に入らなかったのである。その後も紆余曲折は多く、何度か離婚寸前にまで行った。食事を食べるということがいかなる意味を持つのかを考える切っ掛けにもなった。

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食事を作るのが怖い

この話素晴らしい。グルメ番組は食べる人間を王様にするが、勘違いも甚だしい。家庭での料理作りは同じ価値を信じてともに生きるということなのだ。家庭料理は美味しく食べてもらってこそその意味がある。昔は毒キノコ食って死んだり、海で貝食ってしびれたり(僕の体験)、したものだ。ハンバーガー食べて、O157で亡くなった子供の親は辛い。(注)

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食事に埋め込まれたコード

異文化の中に生きる人は素晴らしい体験をする。コーシャとかハラルといった食事についてのCODEはその人の最も重要なものだ。もちろん各個人の家庭におけるCODEを通じて現実のものになる。これはとても大事なことだと思う。読んでいて涙が出てきた。色々と学ぶことは多い。

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ル・クルーゼ、フィスラー、名も無き鍋釜

料理作りのプロのページも多いが、実際にやっている感じのある人は少ない。この方のお料理は素敵である。使っている鍋の使い込まれ感がいい。(注)インスパイアされる所も多い。読んでいったらご自身も小麦粉のアレルギーとのこと自分の身体にピッタリのものは自分で作る他ないのだ。

オイルバスって美味しそうだ。食材の入る小さなボールか寸胴みたいなものが1るなあ。キャンプ用品でも良いのだろうか?油は天ぷら上げている油使うと旨味が移るような気がするし。今日やってみようっと。

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小麦粉のアレルギーて結構ある。人の身体は常に環境に対して変化しながら生きている。いろいろな人の体験を知ることは意味が大きい。

幸運な病のレシピ2020/08/07 00:04
こんにちはコーシャとかハラールと言われる食事に対してのcodeを馬鹿にする栄養学者もいますが、僕には納得できません。https://note.com/masaya59/n/n6fedb750e5c5 noteの中でも「アレルギーのおかげ」で豊かな食事の人と時々出会います。アレルギーを治すべき疾患と考えるよりも自分らしさなのだと考えたほうが素敵かと思います。僕はII型糖尿病で、当初とても残念に思っていましたが、今では食事を大事に考えることができて幸運だったと感じています。カップ麺と菓子パンで食事済ませている人見ると、時々は自分の体が不便とも感じますが(笑)。なにせ美味しい事はよく知っていますから.....。30年後の自分に素敵なものをプレゼントするつもりで、家族とペットに毎日食事作っています。食物が自分を作っているということをもっと大事に考える世の中になってほしいですね。年老いて誰かの世話にならなければならなくなった時に、ちゃんとしたものを食べさせてもらいたい(笑)。まあ、ピンピンコロリと死ぬつもりですが。

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うん、いいね。僕も食べたい(笑)。マイクロバイオームのレベルでは、セックスは大掛かりな引っ越しなのだ。両方とも疲れる。


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母の実家の写真、僕が生まれる2年くらい前。「結核・アルツハイマー・院内感染・認知症・外傷性嚥下障害」みんな亡くなってしまった。それぞれに苦しみながらも生きていた。死は隣り合わせで医学は「まじない」程度の力しか持たない時代である。家族で食事をともにしながら必死に現実に向かい合っていた。

注)家族という線引

「食べれるもの、食べてはいけないもの」「セックスできるものセックスしてはならないもの」私たちの欲望は見境なく貪欲である。身体が壊れるほどの享楽を得ることが出来る。

それは「細胞たち」が「コロニーの存在に気がついていない」からだ。「細胞たち」は自分の為に物質を(食事により)身体の内側の海に招き入れる。しかし、それぞれの細胞の求めるものは違い、時に害をなすものが招き入れられる。そして、互いに壊し合うのだ。壊して飲み込んで自分が維持される。細胞レベルのM&Aである。「オートファジー」という生命の捉え方=考え方は奥が深い。僕は大好きだ。

身体というコロニーを維持することが重要な「コミュニティ」においては「宗教的戒律」が有効であった。神様の発明である。しかし、身体を司るマイクロバイオームのほうが一枚上手である。メフィストテレスが神を作ったのだ。

注)ソシュールの言語モデル的に考えている.......

ラングとパロールと言う概念をソシュールは考えた。1900年ころのことである。私達はなにかの行為をする時に教えられたように行動する。しかし、教えられたこととは異なったように変化させていく。ソシュールは「言語」がなぜ生まれ変化していくかを考えたのだ。これは「食事やセックス」にも全く同じ様に当てはまる。

注)O157で亡くなった子供の親は辛い。

フード・インクという映画に食の安全を語るパートがある。そこでの親のお話は見ると辛くなる。これは「薬害」などとも同じ構造である。この映画は機会があったら見たほうが良いと思う。僕は「商売としての医療」というものを信用しない。しかし、「心ある医師」は信用している。個人的な友人となりたいかどうかで判断している。僕には親友の医師がいる。人間として素晴らしく、そして偶然職業が医師なのだ。

注)使っている鍋の使い込まれ感がいい。

大きな銅鍋を母から受け継いだ。41cmの中華鍋は僕の人生をともに歩んでいる。ル・クルーゼは結婚する直前に妻になる女性と一緒に買った。母の出刃包丁はボロボロだったが砥いで柄を付け替えてもらったら僕の一番のお気に入りだ。フィスラーとビタクラフトは丸元淑生先生の著作にあこがれて買った。墓の下まで持っていけるものではないが、断捨離などというエエカッコシイな言葉で済ませるのは辛い。料理でいちばん大事なものは道具だ。「弘法筆を選ばず、道具ではなく腕だ」などと言っても、包丁無ければ物は切れまい。世界と渡り合うにはどんな道具が有れば良いのだろうか。とりあえずメシ作ろう。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。