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シャーロックの医療メソッド:お医者様、あんたは誰の味方なのだ?

BBCテレビドラマに「シャーロック」という番組がある。シーズン1はかなりよくて、2が最高、3は残念、4をどうなることかと思いながら待っていた。そして見たら、残念✕100のツッコミ所満載なのである。しかし、シーズン4の最終話を見て、やられたのである。もう涙ボロボロで、ああこのシリーズは「この事」を描きたかったのだと感じたのだ。

シャーロックの依頼人はいろいろな人に相談をして、お前がおかしいと言われてどこに未行き場がなくなって最後にシャーロックの部屋を尋ねる。シャーロックは決して依頼人の言葉をおかしいとは考えない。

狂った世界を合理的に捉える道筋を共に探してくれるのだ。

共に戦ってくれるのだ。

The stories, the adventures.
There is a last refuge for the desperate, the unloved, the persecuted.
絶望し愛されず迫害を受けた人間が最後に逃げ込める場所がある。
There is a final court of appeal for everyone.
誰でも話を聞いてもらえる最後の法廷
When life gets too strange, too impossible, too frightening, there is always one last hope.
人生で奇妙なことありえないこと恐ろしいことが起きてしまった人の最後の希望。
When all else fails, there are two men sitting arguing in a scruffy flat like they've always been there, and they always will.
誰もがお手上げでもむさ苦しい部屋で議論を重ねる二人の男がいる。
The best and wisest men I have ever known.
My Baker Street boys.
Sherlock Holmes and Dr Watson.

そうだった、子供の頃通った図書館には僕のホームズがいた。
今はどこにいるのだろう。

そのおかしな現象を起こした現実を見つけようとするのだ。そして決して患者を異常だとは思わない。合理的な原因を探し、共に立ち向かうのだ。

僕は小さい頃からこの物語を、何度も読んでいたのだけど、この魅力には気が付かなかった。改めて考えてみるとそのとおりなのだ。推理小説が数ある中でも、この物語が決して忘れられないのには訳があったのだ。

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私達は、他人を言葉や仕草で理解しようとする。老人を認知症と笑うことなかれ。理解できない自分を恥じるべきである。

人生というコンテキストの中で、その人の言葉や行動は理解される。人生を共有していないから表情や言葉の断片ではその人の心に写っている現実を自分の中で共感できないのだ。

言葉などというのは互いに勝手にルールを決めたゲームのようなものだ。同じルールで動いているという幻想は捨てたほうが良い。その表情の内側にあるものを知りたいとなると、推理する力が必要になる。

役所の係員に、税金をつかう権利をもらうために父母は検査を受けた。久しぶりのお客さんが話してくれて、認知症と判断された母は「嬉し恐ろし」がっていたが、僕にはあんな検査なのかと呆れ果てた。横で聞いていた僕も認知症と判断されなければならない結果であった。

母がセットでいる限り、どちらも認知症ではない。共にいたわりあいながら人生を生きれるから。そんな母も亡くなってもう5年だ、父は今年3月に亡くなった。僕はいよいよ認知症である。

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「ナラティブな医療」を標榜する医師は多い。と言うか、患者の側に立っていると言わなければならない時代だ。

しかし、考え方は旧態然としている。病気だから症状が出ているのであって、その症状は薬と手術で治すのだ、食事や運動などの自己責任で起こったのだから、辛い思いしても仕方がるまい。

薬には副作用もあるけど、病気(症状)よりいんだから、医師の言うとおりに薬飲んで金払いなさいと言うことだ。


分子標的型の薬はよく効く。しかしいずれ身体は本格的に壊れる。それに気がつけた僕は幸運である。

時折、健康に関して相談を受ける。色々な話をするが僕はその人を異常だとは思わない。そんな風になったのはどんなに辛い目にあたのだろうかと共感して時に涙が出てくる。

しかし、その人が自分で向き合わなkればならないのだ。

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30歳を過ぎてI型になって、インスリンポンプを付けながら、血糖値が600mg/dlを超えることもあるという人と話をした事がある。小太りで毎日旦那さんにお弁当でおにぎりを作り自分も食べるという。インスリン打っていても食事がしっかりしていなかったらなんにもならないと話した。自己免疫疾患系でのI型の発症で薬打っていれば良いのだと何事もないように言う。アンタみたいなII型とは違うのと言う風であった(笑)。

まだ、食事と健康の関係に関して体系的な考え方を持つ前だったと思う。

一緒に汁を作ってこれを食べてみようと提案して、鍋ごと差し上げた。高血糖が続き、前歯が抜けていたと聞いた。もう5年近く前のことだ。そのご連絡はない。どうなっただろうか?

担当の医師は、マニュアル通りの事を話しているのだろう。生活を変えられないのはその人の責任だろう。けどね、僕は生活を変える勇気を与えなければならないと思う。

ナラティブのほんとうの意味は共に生きる勇気を与え、受け取ることだ。

医師も辛いと思う、いくら治療しても、患者は重症化していずれ死んでいく。自分の力ではどうにもならない。患者の行末を知りながら今日も向き合わなければならない。マニュル通りに対応しなければやっていれないと思う。患者の日常など考えていたらなければメンタルが壊れる。

それには、クライアントの目線で本気に共感しなければならないのだ。

自分も同じ目に会うことがきっとあると思えば共感できる。

そして、医師は自分お体験の中から新しい視点を見つける事で医師自身も自分らしさを取り戻せるのだ。患者に向き合うことで自分も変わるべきなのだ。

とはいえ、医師の言うことを聞いていればいいという患者が何と多いことか。最後はそこが問題となるのだ。


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余談、ワトソンさんとんでもない

まあ、主役の2人はマーベル行っちゃたしねえ、シャローっクはもうこれ以上お腹いっぱいかなと言う感じであります。やっぱ、シーズン1-2のモリアーティとアイリーンの話のあたり最高だよね。

ニュヨークではエレメンタリーが頑張っている

同時期にアメリカの方でもシャーロック・ホームズをリスペクトしたドラマが作られている。

こちらもすごい、どちらかと言うと、僕のブログではエレメンタリーの方をたくさん書いている。「依存症」に焦点を合わせ様々な問題に向き合うのだが面白い。

まもなくラストシーズンがDVDに出る。楽しみであります。

ファイナルシーズン出ました。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。