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私がスカイベイビーズで“自然体経営”を選択した理由【ナラティブ前編】

私はずっと、自分を弱い人間だと思っています。特徴があるわけでもなければ、特別スキルに長けているわけでもない。自分ができる人だと思った瞬間は、ほとんどありません。

だから、私と同じように自信を持てなかった人たちや、多少の弱さがある人たちが、自分の価値に気付き、力を発揮し、活躍できる場を、スカイベイビーズで実現したいと考えています。

そして、凸凹した人たちが、凸凹したまま長所を生かしたり、互いに支え合ったりして生きていける世の中を目指したい。そんな思いを持ちながら、スカイベイビーズの経営にたずさわっています。

今回は、このような思いにつながる原体験の話や個人的な思いを、ナラティブとしてつづってみたいと思います。

弱者と強者でいがみ合う社会構造への違和感

子どものころから、「弱者と強者」がある社会や理不尽なヒエラルキー構造に対して、抵抗感を持っていました。これは、さまざまな面でいまの私の思想に影響を与えており、いわば原点ともいえる思いかもしれません。

まず、大きな原体験のひとつは、自分自身の生まれ育った家庭環境が弱者側だったこと。その影響で、自分の力ではどうにもできないことによって望まぬ方向へと人生が転がる経験を、子ども時代から社会人人生に渡って幾度となくしました。友人関係、婚約、仕事現場などさまさまな場所で経験した屈辱的な想いは今でも鮮明に覚えています。漠然としかここでは書けませんが。

そんな経験から、これまでの人生で自信のなさが植え付けられ、怯えるように生きてきた面があります。自分の力ではどうしようもないことがあるなかで、レッテルにとらわれることなく、もっとその人自身を見て、認め合い、お互いを信頼できる世の中であればいいのに……ということを、純粋に思い続けてきました。

ほかにも価値観形成に影響を与えたできごとは大なり小なりいくつもありますが、原体験を思い起こそうとすると、生徒会長だった小中学生時代のことが頭をよぎります。

同じクラスのやんちゃな奴が悪さをすると、「見逃してくれよ、ええやんけ〜」なんて、私に許しを乞うてくる。生徒会長という目立つ立場だからといって、まるで神様のように善悪を判断することが許されるような風潮に、子どもながらに強い違和感を抱いていました。(ちなみに、成績がよかったという理由だけで生徒会長をやらされていました。ものすごく引っ込み思案な子どもだった自分にとって、人前に立たなければならない役割はかなり苦痛だった……)

弱者は自己責任論のもとに見捨てられ、弱い立場から抜け出すことが難しい。そのまま、弱者と強者の格差が広まっていく世の中。強者の立場を利用し自分勝手に物事を判断したり。弱者から搾取することが見て見ぬふりされたり。そんな社会構造に対して、幼少期からモヤモヤと疑問を抱き続けてきたのです。同時に、弱者が「弱者であること」に愚痴を言うだけで変えようとしない状況にも、苛立ちを感じていました。

個人主義への違和感

私が編集者として働くようになった2000年代。世の中では、個人主義の流れが加速し始めていました。フリーランスになれる人はなれば? といった時代の始まりです。同時に成果主義が浸透しようとして、一人ひとりが労働生産性や成果とどう向き合うか? と、詰められるようになったともいえます。

シンプルにいうと、「救いのない時代が始まったな」と思いました。

まるで、逃げ道がなくなったような感覚。息苦しい労働環境と仕事に、人々の心から余裕がなくなっていく。個人主義が浸透するほどに自己責任論も強まり、私のように弱さを持つ人はさらに社会に取り残されてしまうことになるのではと、危機感もおぼえました。

そのころ、いちばん身近にいた人がうつ病を患いました。それをきっかけに、うつになってしまうような理不尽な職場環境や社会構造に対して、より問題意識を抱くようにもなりました。

夢と成長を強いられることへの違和感

昔からずっと、私には「将来の夢」がありませんでした。

何になりたいとか、こういう仕事をしたいとか、この学校に行きたいとか、何もありませんでした。人並みにテレビの世界への憧れなんかはあったので、高校時代に劇団に入って演劇をやってみたこともありましたが、早々に自分には演技の才能がないと見切りをつけて辞めてしまいました。

そんな感じでやりたいこともなかったので、就職活動にも身が入らず。唯一内定をもらったのが、劇団ひまわりでした。なんだかんだで演劇などの芸術分野に対する興味は持ち続けていたので、それが伝わったのだと思います。

社会人になって俳優養成所の運営にかかわるようになり、次々と仕事が増え大変でしたが、同時に、できることが増えていく面白さや、自分が持つ貢献欲求、他の人に負けたくないという思いなどを自覚するように。「できることは全部やってやろう」とがむしゃらに働いた結果、29歳で大阪支社長を任せてもらいました。

「夢」がなくても、目の前の物事に全力で取り組むことで、自分自身の成長を実感し、ある程度の評価を得るという経験をして、少しずつですが自信もついていきました。

その後、ひまわり時代のひょんな繋がりをきっかけに声をかけてもらい、31歳でアソブロック株式会社へ転職。編集者としてのキャリアがスタートしたわけですが、先程も書いた「個人主義」の社会的風潮がここでも影響してきます。

行き過ぎた個人主義の浸透によって息苦しさを抱えながら働く人が世の中に増えた結果、少しでも希望を持つためなのか、それまで以上に「夢は何?」「何がやりたいの?」と言われるようになりました。それまで考えたことがなかった自分にとっては、なかなかつらい問いかけでした。まるで、「夢」を掲げられない人間はダメなやつだと言われているような社会の雰囲気も嫌だった。

「夢」といっても、「家族と幸せに暮らしたい」とか「お金がなくてもゆったり生きていきたい」とか、そういうことはどこか堂々と言いづらいところがあって。「仕事として何を成し遂げたいか」だったり、常に高く向上心を持ち続けることばかりが強いられるような感覚にも違和感がありました。

夢の大きさも、時間のスパンも人それぞれでいい。成長のペースだって他人にコントロールされるべきものではありません。そういった思いから、多様な夢(WILL)のありかたを認め、それぞれの成長スピードを尊重できるような世の中になってほしいと考えるようになりました。


後編では、ここまで書いてきた私の思想がスカイベイビーズの“自然体経営”にどのように影響しているか、どんな理想のもとスカイベイビーズの経営に携わっているかについて、書いてみたいと思います。

今回触れた私の“違和感”について、以下の記事でもそれぞれ掘り下げています。よければご覧ください。





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