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“完璧”とは脆いはずなのに|映画「PERFECT DAYS」を観て

遅ればせながら、というか超絶遅れて、映画「PERFECT DAYS」を観た。少し前に、PERFECT DAYSを観た友人が「まだやってる映画館もあると思うから観てほしい」と言うので、調べたところ確かに上映している映画館があったので土曜日に観てきた。

公開当初、SNSで見かける感想は賛否が真っ二つに割れているように見えた。特にその対象だったのは、主演の役所広司が演じる平山の姿で、その生き方を絶賛している人もいれば、批判的な人もいた。

PERFECT DAYSを観た友人が「自分はそんなに否定的には思わなかった」と言うので、やはり自分で見てみないことには何がなんだか分からないなと思い、観ることにした。

映画を観終えたときの感想は、良いだけでも悪いだけでもない、どちらも出てくる釈然としない思いが込み上げた。

SNSで見ていた否定的な意見ほど、自分は平山の姿を否定したいとは思わなかった。また、映画に出てくる箒の音や木漏れ日の景色など、日常の中に平山が見出す世界は確かに美しい。音楽、景色、そのディティールに関しては、本当に素晴らしさを感じた。

一方で、平山の姿に憧れるかと言われれば、それはどうだろう。彼はなぜ人と話すことをしないのだろうか。ストーリーが進むにつれて、徐々に無口なだけではないシーンが明かされていくものの、それは単純にある人の前では饒舌なんだということではなく、何らかの線引きを感じる。

それは、姪のニコが家出して平山のもとを訪ね、数日彼の自宅に泊まったときのシーン。ニコが平山におじさんのところに住んではダメかと話すと、平山がニコの母親(平山の妹)とは「世界が違うから」と話していた。

世界。これは自分の見当違いな推察かもしれないが、平山からは自分のいる世界とそうでない世界を切り分けて、排除するような感覚が漂う。

たとえば、映画の序盤でトイレに篭っていた少年を外に出し、手を繋いで親を探していたところ母親が猛然と駆け寄ってきて息子を奪い取るように平山のもとから去っていく。確かにあの一瞬だけ切り取れば少年を誘拐する不審者に見えなくもない。また、逆の視点から見れば、挨拶もされない平山が可哀想だとも思う。しかし、なぜ平山はあの母親に声をかけたり、少年がトイレの中にいたという経緯を話さず、無口なままなのだろう。

なぜ何も話さぬまま、母親と去っていく少年の背中に笑顔で手を振れるのだろうか。

そこには、日常の中に潜む小さな素晴らしさが分かる自分と、小さな機微も分からない人という無意識の排除を表しているのではないかと映画館の帰りになって考えていた。

また、トイレ清掃員の同僚として働くタカシとも平山はコミュニケーションを積極的に取ろうとはしていない。喋らないこともないけれど、なぜか無口である。

SNSでは、トイレ清掃員を過剰に美化してるのではないかということや労働を美化し過ぎているのではないかという論調もあったが、自分は平山の生きてきた背景に何かしらそう思う何かがあるのだろうと思ったのでそれ自体はそう映すだけの意図があるのだろうと思った。

話はずれるが、オードリーの若林さんが東京ドーム公演前にウーバーイーツでバイトをして楽しかったという話とも近しい。中年の危機的な文脈の延長で、そうした感じ方があることは否定し得ない。

そういう意味では、世の中のリアルさを映し出しているのはタカシの姿だろう。好意を寄せるアヤ(アオイヤマダさんを見ると昨年Netflixで観た「First Love 初恋」を思い出す)が働くお店に金がないから行けず、「金がないと恋もできないんすか!」(たしかこう言っていた)と叫んでいたその心情には一定分かるなあと思った。

平山がそんなタカシに1万円くらいの現金を渡したのは、一瞬おお優しいやんと思ったものの、よくよく考えると少し疑問を持った。

見方によっては、自分のカセットを下北沢で売られようとしたから呆れて金を渡したようにも見えるだろうし、単純にタカシが可哀想だと思ったのかもしれない。

でも、あの場面はなんというか「金がないと恋もできない」という叫び=リアルさから、平山は分かろうともせずに金を渡すことで遠ざけてしまったのではないか。金を渡すほどなら、どうしてそんなに好きなのかとか、何かしらタカシの想いを汲み取ろうと聞くのではないか。対話を飛ばして、金で解決させてしまうという、なんだかんだマッチョイズム感というか傲慢さがあるように感じた。

平山が2時間の映画の中で十分に会話と言える会話をしているのは、姪のニコと居酒屋のママとその元夫の3人である。

どうして、この3人なのだろうか。

ニコと居酒屋のママに関しては、話が通じる(=こっち側)からという理由なのだろうか。あるいは好意を寄せられたからだろうか。ニコは平山の自宅の本を読み興味を示す。居酒屋のママは平山が読んでいる幸田文の木を見て、「何読んでいるの?エッセイ?」と興味を示す。

もし、その視点で話せる相手、話せない相手が分断されているのだとしたら、「花束みたいな恋をした」の麦と絹と変わらないじゃないかと思う。それが中年になっても続いているのは、ちょっとどうしたものかなと。

最後に、居酒屋のママの元夫と隅田川沿いで影踏みをするシーンがあって、そこで平山の中になんらか変化があったのだろう(正直あのシーンがどういう示唆なのかは完全に分からなかった)けど、完全に平山は壁で隔てた世界の外側へ出て他者と邂逅したと言えるのだろうか。相手が弱さを出したから、一種の哀れみではないか、とちょっと釈然としない思いで映画館を後にした。

そんな雑感を持っているので、もちろん全体的には素晴らしかったのだが、平山の生き方に共感するというよりは個人にとっての完璧な日常というのは都合の悪いもの(ノイズ)を排除した先に訪れるものかもしれないと、背筋がぞわっとした。

もちろん、それは自分にも多分にあって、"丁寧な暮らし"に憧れて綺麗なものしか身の回りに置こうとしないことであったり、アルゴリズムによって見たいものしかみないネット空間、カテゴライズすることでキーワードが重ならない人は遠ざけてしまうコミュニケーションの取り方。あるいは、キャンセルしてしまう態度。

まさにそれは、木漏れ日の写真を撮っては納得いく写真をコレクションのように保管したり、木の芽を持ち帰っては自室で丁寧に育てる平山の姿そのものである。

この世の中は完璧なんてあり得ないのに、整ったように見える〈完璧〉な空間を作り出そうと躍起になる。

完璧って、脆いのに。

だから、平山をすごく憧れたいとも、露悪的とも思わなかった。ただ、自分もそういう一面があると思った。

具体的に、どう外側を排除してしまう自分と折り合いをつけるべきなのかは分からない。対話をすればいいのだろうけど、"対話"と片付けるのもまた違う気がする。

結論は分からない。けれど、結論も方法もわからぬまま、誰かと話すことで変化して、自分は〈完璧でない日常〉の中で揺蕩って生きていく。

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