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父の帰宅 19

翌日からうつが始まった。マサはひどいうつ状態のことをヒラメと呼んでいた。ヒラメのようにベッドにじっとしている状態のことだ。パニックになって以来マサはちょくちょくヒラメになっていた。ヒラメもかなり辛い状況ではあるがこの頃になるとマサは生粋のニヒリストからは脱出しつつあったので、なんとかやり過ごすことはできていた。

しかし裕美にヒステリーを起こされたあとのうつ状態はヒラメとは別次元のうつだった。本当にきついうつは精神だけでなく、身体もまるで高熱があるかのようにしんどくて動かない。インフルエンザにかかったような状態だ。何もしたくないのではなくできない心身の状態だ。

そんな状態が約一週間続いた。朝起きて一番うつ状態がきつくなったとき、マサは這いつくばってステレオのところまで行き、ジュエルの『フーリッシュゲーム』を延々三時間リピートで聴き続けた。わざとうつ状態を悪化させたかった。

その後マサはうつの状態から脱出する。今から自殺するか、生きるか考えようと思ったからだ。

まず部屋で首が吊れる場所を探した。ベッドの上にある押入れのとってに紐を括り付ければぎりぎり足がベッドに届かないことを確認して、新聞を括る紐を三重に巻いて押入れの取っ手に首吊りができるように巻いた。そして部屋の中央に座って考えた。

今ここで死ぬか、それとも生きるか。死ねばもうあらゆる苦痛から開放される。生きていくとするならば、パニック障害、事故の後遺症に怯える生活、恐らくPTSDだろう、これらを同時に抱えて生きることは半端な覚悟では生きられない。

マサは静かに考えた、簡単には答えは出ない。死のうとするとき人間はこんなに冷静でロジカルにものごとを考えるものだとは思わなかった。交通事故後の身体の痛みや幾つかの致命的に思える精神疾患など、今は最悪の状況に変わりないが、いい記憶もあった。スポーツや音楽から得られる疾走感と充足感、恋愛の恍惚と異性に抱くことができた本質的な愛情、文字どおり瑞々しく濃密な時間を過ごすことができた幾人かの友人たちの存在。

もう一生外には出たくないと何度も思ったことがあるが、これらの記憶や存在は絶望よりもほんの少しだけ強く、この世界は生きていくだけの価値があるという希望を抱かさせてくれた。完全にこころが冷え切る前にマサはもう一度、自分のこれまでの人生を丁寧に辿った。そしてマサは生きることを選んだ、中途半端な覚悟で選んだわけではない。それはこれからマサが証明していく。

この日を境にマサはより積極的に治療に取り組むようになった。先生に提出するレジュメの内容も、ずいぶんと書き込まれた内容の濃いものになっていった。左記は年が明けて二〇〇二年一月一一日のマサが橋本クリニックに提出したレジュメだ。

──小一のとき両親が再婚。再婚後も常に夫婦喧嘩が絶えなかった。父親が帰宅するのはいつも午前二、三時。仕事もすぐに辞めてしまって色々なところを転々としていた。

両親の喧嘩がエスカレートすると母に暴力を振るうことも。僕はそのときただ布団に包まって耳を塞いでいるだけだった。僕が小学校五年生のとき父が出て行く。

友だちのヒデキに「お前のオヤジ逃げてんだろ」といわれたとき僕の中で何かが変わった。

それから友だちと話していても父親の話や家族の話になるとその場から離れるようになった。中一の二学期を境に何人かの友だちを除いた人間が急にバカに思えてきてコミュニケーションをとることができなくなった。いじめられるのが怖くてこっちから予防線を張った気がする。

学校を月に一、二回理由なく休むようになった。どうしても朝誰にも会いたくなくなるときがあった。でも学校を休むともの凄い自己嫌悪に苦しんだ。周りには成績を落としていないことで正当化していた。運動も勉強もある程度できたのでそのことで家庭のコンプレックスとのバランスを保っていた気がする。

身体的にも顔も父親にそっくりだったのでそれが嫌で仕方なった。周りもそのことを僕にいってくるし、絶対に父親のようになるまいと力技でねじ伏せようといつも思っていた。社会的に地位のある人間になって、父と僕を一緒にした人間たちを見返してやりたかった。

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