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父の帰宅 13

「心理カウンセリングを受けられなかったのですか」

「はい、ちょっと現状ではこの料金を払えないと思ったので」

「そうですか」

「経済的になんとか自立したいという思いは強いのですが、現状では体調的に厳しいのでジレンマです」

「僕は経済的自立よりまず湯浅さんが幸せになることが先決だと思いますが」

「僕は事故から回復してかなり前向きになったと思います。人生観が変わったといってもいいくらいです」マサは必死で食い下がっていた。

「そうですね、まあ、例えば社会人の方だったらうつ状態が続いても何か仕事がうまくいくことが続いて自然に回復していかれる人もいます。湯浅さんの場合もそうなる可能性がないわけではないので、心理を受けるか受けないかは湯浅さんの判断に任せます」

「分かりました、とりあえず今は受けられないです」

ジレンマと言葉に出していたが、そう表現するしかほかなかった。安いとはいえないカウンセリング料金を捻出するには働くしかなかったし、今のマサにはそれができなかったのだ。

一二月八日、マサからメールがあった。残り少ない貯金を使ってヒサコさんの好きなガーベラの花束を予約したと書いてあった。明日はヒサコさんの誕生日ということだ。いい彼氏じゃないとわたしは思った。この日ヒサコさんがシンガポールから帰国後、無事に帰国したことと誕生日を祝って、彼女の前の勤め先の人とで居酒屋に集まった。

マサも参加した。マサはここ最近のヒサコさんの情緒が不安定になっているのは気づいていた。ヒサコさんもいいたいことはあるけどいえないとだけマサに伝えていた。この居酒屋で姉のユウカさんからメールを受け取ってさらに不安定になった。急に泣き始めたり、誰彼構わずハグをしていたかと思うと、突然ひどく落ち込み始める。酒にはそれほど弱くはなかったので、アルコール以外の理由が考えられマサは不安になった。

マサは飲み会などで夜遅くまで周囲が騒いでいるとそわそわし始める。もともとアルコールをまったく受け付けず、見知った人間が酔っ払って別の人格になっているのを目撃するのが嫌だった。

このときも早く帰って自分のベッドに潜り込みたいと思い始めていた。みんなはカラオケに行くといっているのでマサは先に帰るといった。ヒサコさんもカラオケに行くといっていたがマサが車を発進させようとした瞬間、助手席に乗り込んできた。そして高速に乗ってからヒサコさんは錯乱状態に入り始めた。

足をばたつかせ、髪を掻き毟り、泣きわめき、今日はどうしても家に帰りたくないといい始めた。こんな状態のヒサコさんを見たのは初めてでマサ自身も怖くなってきていたが、彼女に自分が動揺していることを見せるわけにはいかない。

不安定な状態の人間に頼りにされている人間が動揺していることを見せてはいけないことをマサはよく知っている。

「ヒサちゃん、まず深呼吸を繰り返して、大丈夫だから」

「あの子はね、不倫してんの、それで私に相談してきて不倫は止めるっていってたのに、さっきのメールであの子は生きたいように生きるって書いて寄越したの。私の誕生日に。チャンネルを変えたくないの、わざと狂っているの、あの子に思い知らせてやる。私がどれくらい苦しんでいるか思い知らせないとあの子は分からないのよ」

ヒサコさんは落ち込んだときチャンネルを切り替えるといって急に元気になることがよくあった。マサはこれは前向きな行動だとそのときまで思っていたがこれはトラウマを隠蔽するためのヒサコさんの防衛本能がそういう行動に至らせていた。

機能不全の家庭で生きていくことを余儀なくされた人間がとりがちな心理的防衛だ。一見前向きで、切り替えのできる人間だと周りには映る。そして一生隠蔽したまま死ねればそれに越したことはないが、ヒサコさんはこのとき不幸にもトラウマが明るみになってしまった。マサは自ら不安定になろうとしている人間の対処の方法は知らない。

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