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興味ある方向へふらふらしてたら、グラフィックデザイナーになっていた。②

4/23(木)次女を初めてディズニーランドに連れていった時、お土産に買ったダンボのぬいぐるみがある。次女の相棒みたいな存在で、常に一緒に行動している。遊びに行く時も、寝る時もいつも一緒だ。去年大阪へ家族で旅行に行った時ももちろん同行していて、初日に気づいたら無くなっていた。僕らはあわてていつまで持っていたかを思い出し、訪れた場所に何箇所か連絡をした。幸い、とある施設で見つかり、代引きで自宅に送ってもらった。僕ら夫婦にとっても気づけば、特別な存在になっている。昨晩、そのダンボが見つからない。家族総出で家中を探すも見つからない。一番下の娘がどこかに隠した説が有力だったが、結局見つからずあきらめて寝かせた。朝になり、再び捜索。見つからなくて気持ちが悪いのは僕ら夫婦の方だった。最終的に長女の学校用のトートバッグから出てきたのだが、なんだかようやく落ち着いた。そんな本日の始まり。

昨日の続き。

大学には単位を取るために通いながらも、そこまで真面目に授業は受けてはいなく、それよりもマガジンハウス『relax』のバイト時間が楽しかった。週末はgaimgraphicsのメンバーで集まり、友人からの依頼でクラブのイベントのフライヤーやTシャツ、CDジャケットなどを作る。そして夜はクラブへ遊びに行ったり、ゲームをやったりそんなルーティーンだった。大学で教わった事はあまり無かったように思うが、ただ漠然と同じような志やモラトリアムを抱えて上京し、出会った友人と結果こうしてデザイン事務所を開くことになったので、人生は分からない。

マガジンハウスの『relax』でバイトをする日々の中で、おつかいのバイトから違った事をやらせてもらうようになる。macが使えたこともあり、DTPのアシスタントをやってみないか?と言われた。macのスキルは今思うと全然たいしたことはなかったけど、ここでアシスタントをやった事で、スキルはいっきに上がる事になる。DTPとはデスクトップパブリッシングの略で、macが普及した事により、雑誌作りがそれまではアナログ作業だったものからPCヘシフトし、DTPはそのPC上での紙面作りを指す。そんな過渡期の申し子世代だ。

アシスタントとしては、写真をスキャンしデータ化したり、レイアウトソフト(当時はクオーク)の写真を差し替えたり、そんな感じだった。この当時はまだ写真はフィルムが主流で、紙焼きやポジフィルムを最終的には印刷所に分解してもらう時代だった。『relax』が作家性の高い写真をバンバン掲載していたというのも理由だとは思う。ホンマタカシさん、佐内さん、久家さん、大森克己さんなど、すごい人の写真を日々仮でスキャンしデザイナーに渡すそんな業務だった。なので、そこで毎日のように素晴らしい写真を生で見れていたのはいい経験になったと思う。色校正という試し刷りに対して、色の修正指示を入れたり、そういった完成までの雑誌作りの流れを体験しながら学んだ。

そのまま大学も3年になり、進路をどうするのか?という話になってきた。gaimgraphicsとして活動を毎週集まって続けていて、このままいずれ会社にできたらいいよね。という話は何度かあった。若かった事もあり、他にやりたい事も無かったので、6人いたメンバーのうち、2人は就職という道を選んだが、残り4人はこのまま続けていこうとなった。元々僕は慎重な性格なためもちろん不安もあったし、迷いもあったと思う。gaimgraphicsとしては週末集まってやるくらいの仕事依頼はあった。

とはいえ、それだけでは食べいけないので、引き続き『relax』でフリーランスとして契約をしてもらった。給料は良かったので、お金の心配は無かった。毎日不規則な生活だったけど楽しかった。ただそんなに長くもその楽しい時間は続かなかった。マガジンハウスは会社なので、仕方ない事だけど、『relax』編集部の編集長が交代したり、元々いた社員さんがどんどん移動になってしまった。新しい社員さんとももちろんちゃんとやっていたけど、僕の方が古株になってしまい、なんだか居心地が悪くなってしまった。リニューアルも行い、刷新したけど、かつて僕が好きだった『relax』では無くなってしまった。新しい社員さんにも気を使われる始末で、去り際だと思った。

そんな感じで辞めた後は、海外をバックパックで旅行したり、gaimgraphicsとしてロンドンで作品を展示をする機会を得たりし、新しい自分たちの居場所を作るために動いた。それぞれがフリーランスとしてデザイン事務所や出版社で働いていたが、それを辞め、2005年の25歳の時に正式に会社を立ち上げた。

『興味ある方向へふらふらしてたら、グラフィックデザイナーになっていた。』というタイトルにしたものの、改めてきちんとしたデザインの教育は受けていないという事が分かった。常に現場で見て感じてやってみてを繰り返し、自分の中の理想とするカッコいいデザインや生き方を、若さを武器に仲間と共有し、その延長として気づいたらなんとなくグラフィックデザイナーになれていた。という感じだ。

そもそもは中学生の時にスケボーを友人達としていたのがきっかけで、そこからアメリカのカルチャーに衝撃を受けた。ファッションだったり、音楽だったり、映画だったり。そういうものに仕事で携わりたいというのがなんとなくずっとあって、それが美大への進学に繋がった。そして願った仕事ができているので、ある意味奇跡だ。

と、十風満帆な感じでスタートを切ったように思えるけど、実際のところは全然仕事もなく、一日中みんなでゲームをやったりしてて、どんどん貯金を切り崩す生活が始まるというね。ドクターマリオとマリオカートをめちゃめちゃやってた記憶があります。そこからどう立ち上がっていったか、そんな事もまた書いてみたいと思います。

※ ヘッダーの写真は『relax』のタイアップで僕の部屋で撮影した時のもの。写真は大森克己さん。


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