センスについて

The espresso culture in Italy is like that of the stand-up-eating Soba culture in Japan.

センスとは持って生まれた能力なのか、それとも後の経験によって育まれるのか。

どちらもあると思うが、人には明らかなセンスの良し悪しがある。

センスが良いから幸福で、悪いから不幸というわけではないから、決してその否定や肯定を語っているのではない。

まあ、視力のいい人と悪い人がいて、視力が悪い人はメガネをかけるように、現時点でセンスが良くない人はセンスの良い人と行動をともにする方が、メガネをかけないままより創造性が高まり人生の豊かさや彩りも増すよね?くらいの話。

加えて、センスが大きな成功をつくる直接的な要因ではないとも思っている。本当に大切なことは、センスよりもさらに深層にある、まことの行いにあると僕は信じていて、常々、社内でも共有している。


ちなみに誤解を恐れずいうと、僕はある領域においては突出したセンスがあることを自負している。ただし、全体的に偏ったところや、明らかに欠落しているセンスがあることも同時に自覚している。

その穴というか、足りないセンスを埋めてくれる存在が、一人、またひとりと、次々に増えてきて、明らかに自分と組織全体のセンスやケイパビリティが高まり続けているのが今だ。

そして、大事なポイントとしては、相手からすれば、僕が足りないセンスを埋める存在にもなっているということだ。

先日から紹介している名著「胎児の世界」の影響もあるのか、異なるものが1つになり、より深く、大きく、ダイナミックに育まれるのが生命と組織の本質であるという、ある種の感覚が、普遍的な実感へと移行しつつある。

それにしても、イタリアのエスプレッソ文化が、日本の立ち食いそばのようものだと瞬時に例えるセンスは気持ちよかった。

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