小説『愛子の日常』 本編8
~セント、バカンスに行く~
セントはさやかが日本に帰ると言ってから、僕はどうしようかとずっと考えていた。毎年バカンスには、スイスの山々に登るのがセントのスタイルとして定着していたが、さやかと会えなくなるのではという怖さもあり、結局この日本行きの飛行機にさやかと一緒に乗ったのだった。
セントはスイスの山が好きだった。山々に登ると言っても、その頂きに登頂するわけではない。セントはいつも山腹や峠にある山小屋を転々と渡り歩くのだった。
今回はどのルートでどの山小屋に泊まろうかと登山地図を見て計画を立てるだけでワクワクしたし、壮大なアルプスの麓を歩くことは、山から流れる気を浴びるような神秘さがありたまらなかった。
その景色はセントの脳裏に鮮明に残り日々の活力となっていた。
完全にスイスの虜となっていたセントだが、そのスイス行きを諦めてまで日本に来たのには、セントなりの理由もあった。
日本食や禅の文化など日本がここまで浸透した時代はないと思えるほどこの時代の人々は日本をよく知っていたのだが、セントにはその日本文化が表面的なものに見え、日本という国がなにか雲に隠れた存在のように感じていたのだ。
セントは先日日本行きを決心し、さやかのご両親に挨拶に行った時のことを思い出していた。セントが一緒に日本に行きたいと伝えると、さやかのご両親はものすごく喜んでくれた。
しかし、セントとさやかの前の席は空席となっていた。さやかのご両親が直前になって仕事の都合がつかなくなり、行けなくなってしまったのだ。
セントはその事が残念でしょうがなかった。
日本に着くと、さやかはセントに「日本で行ってみたい所はある?!」と尋ねた。
セントはすぐさま「広島、長崎、それから京都」と答えた。
「広島・長崎は遠いよ~ ここは東京だよ。京都ならなんとか行けるかな~」
「でも先ずは、さやかのおじいちゃんの家がある山梨に行かないとね。さやかのおじいちゃんおばあちゃんに会うことが今回の目的なんだから。」
セント達はそこから3時間電車で移動することになるのだが、その移動距離はセントの想像を超えていた。「もう疲れた」その一言しかセントからは出てこなかった。「これだったらスイスの山に登った方がまだ楽だった」と思うほど飛行機や電車の中で座っていただけなのに物凄い疲労感だった。
おじいちゃんの家に着いた頃には辺りは真っ暗になっていた。
駅からは歩くことになったのだが、足元がかろうじて見えるか見えないかという暗さの中、さやかはスマホのライトで前を照らしながら、迷うことなくセントをおじいちゃんの家に案内した。
「まぁ〜、さやかちゃんが彼氏を連れて来たわよ!」おばあちゃんが明るくセント達を迎え入れてくれた。セントは日本語がいまいち分からなかったが、自分が訪れたことをものすごく喜んでくれていて、なんだかホットした。
次の日、さやかはセントを連れて山梨を観光しようと計画を立てていた。
行く場所を念入りに調べて、移動時間までも計算に入れたほぼ完璧なプランだった。
ただ移動手段だけは、おじいちゃんの軽トラを借りて観光すればいいと安易に考えていた。
その日一日おじいちゃんから軽トラを借りることに成功し、さやかのプランは上手く進みそうだったが、ただ一つ問題なのはその軽トラはマニュアル車だということだった。
さやかはセントを助手席に乗せ、得意げにエンジンをかけた。そこまでは良かった。
しかし次の瞬間、いきなり発進したかと思うとすぐにエンジンが止まってしまった。
さやかはエンジンをかけ直したが、またしても急発進し、すぐに止まった。
その後も急発進しては止まり、止まっては急発進した。
そんなこんなで、この10分ほどの間に10mも進んでいない。
セントは時折、椅子に頭を打ちながら、さやかの運転に付き合って乗っていたが、さすがに無理だと思ったのだろう「この車を運転するのは無理なんじゃないか」とさやかに言った。
結局レンタカーを借りて出発した。
おじいちゃんの家の近くにはレンタカーを借りられる店が無かったため、電車で大きな駅まで移動してレンタカーを借りなければならず、かれこれ2時間も時間をロスしていた。
「あ〜あ、さやかのプランがだいなし~」さやかは運転しながらブツブツ言っていた。
セントは運転はしなかったが、イギリスと同じ右ハンド左側通行の道並みは、助手席に乗っていてもなにか馴染み深いものがあった。
さやかはしょうがなくプランを変更していた。
セントには富士山を見て欲しかったから「富士山絶景スポット」とカーナビアプリに入力し、その通りに車を走らせた。
途中、道の両脇が開け、田園風景が広がった場所があった。セントは驚き、さやかに「これは何?!」と聴き込んだ。
「これは田んぼって言うんだよ」とさやかが答えると「まるでスイスのような緑色だ」とセントは感嘆してその風景を見ていた。
さやかとのドライブの時間はセントにとっては新鮮で有意義な時間だった。
1時間ほど車を走らすと小高い丘のような場所に着いた。カーナビアプリが案内した場所だ。
しかし、そこに広がる風景はさやかのイメージしていたものとは違っていた。
富士山からは程遠く、山と山の間にかろうじて富士山が見えているような、とても絶景スポットとは言い難い場所だった。
「こんなはずじゃなかったのに」とさやかはへこんだ。
こんな所にいてもしょうがないからと、当初一番最後に行こうとしていた夜景で有名な温泉に向かってみることにした。
市街地を抜け林道を30分ほど進み、見えてきたのはキャンプ場のような場所だったが、そこには確かに温泉の看板が立っていた。
勿論ここにさやかが案内したのは、さやかが山梨出身だから知っていたという訳ではなく、ネットで調べたら人気スポットとして出てきたから行っただけだった。(さやかは日本よりもロンドンの生活の方が長かったのだから、そこはしょうがない部分でもあったし、何よりさやかのお転婆とも思える生き様に免じて許される事でもあった。)
その温泉には「そっちの湯」と「どっちの湯」の二種類の温泉があったが、この2つの湯は隣接してあるのではなく、離れて作られていて見える景色も違った。
「『そっちの湯』と『どっちの湯』どっちに入る?」とさやかはセントに聞いた。
セントは「どっちの湯に入る」と言った。
するとさやかは「じゃあ、さやかは『そっちの湯』に入る」と言い出した。
「普通さ、温泉に来たら同じ景色を見て楽しむものじゃないの?!」セントは目をまん丸にして、さやかの言葉に被せるように言葉を返した。
「どうせ一緒に温泉には入れないし、別々の景色を味わえる訳だから、そっちの方がお得でしょ!」さやかのこの言葉にセントは呆れ返った。
結局、別々の場所で入浴を済ませると、売店で一緒にアイスクリームを買って食べ、何事も無かったかのように二人は仲睦まじく、目の前に広がる山梨の街並みを眺めたのだった。
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