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仏教に学ぶ生き方、考え方「譲るということ」

 先日、フィギュアスケートの羽生結弦さんが約三ヶ月ぶりにアイスショーに出演し、健在ぶりをアピールしました。天性の才能もあり、スケートを続ける環境もあり、そして何よりも本人の並々ならぬ努力があってこその演技ですよね。しかも周りに感謝を忘れず、また皆さんの応援を心の糧にしてさらに努力する、そういう姿勢は素晴らしいなと思います。
 ということで結弦さんから連想して、今日は「譲る」ことについて話してみたいと思います。(なんとも単純な連想ですが、、、)「席を譲る」、「道を譲る」、「後輩に地位を譲る」、「子どもに家業を譲る」、など様々な場面で譲るという行為は行われます。これを仏教では「牀座施」(しょうざせ)と言って「無財の七施」(お金やものがなくてもできる七つの布施)の中の一つです。確かにお金も物も必要としませんが、それでもなかなか布施をすることは難しいですよね?それはなぜかというと、煩悩や五欲といった、様々な欲望やプライドみたいなものがあるからです。でもそれを超えて譲るという行いをすることで、自分の煩悩や欲望を自覚し、それに囚われないところに心の安心(仏教ではあんじんと読みます)を得るわけです。
 そうは言ってもこの世は競争社会、切磋琢磨することで世の中がよくなっていくと考えるのももっともですよね?でも譲らずにこれから先もずっといられるのでしょうか?若いときには意識すらしていなかった老いや病がいつのまにか自分に忍び寄ってきますし、いずれは死に臨まなければならないときが必ずやってきます。つまり多かれ少なかれ、「譲る」という行為は必ずしなければならないのです。その時になって、あたふたして苦しい思いをするよりは、少しずつ「譲る」という練習を心がけていったほうがはるかに安心して心穏やかに過ごせると思いませんか?
 また、自分の周りにあるもの、これはすべて譲られたものであるとも言えます。今座っている座席ももし私がいなければ誰かが座っていたでしょうし、昨日食べたご飯も生き物たちの命を譲っていただいたものであり、譲られたものによって私たちは存在しているのです。
 会社も先輩たちが退職をしていただいたおかげで、自分の席があるわけですし、あなたが譲った役職にはまた誰かが就くでしょう。つまり世の中は譲り合いで成り立っているといっても過言ではありません。そのことに気がつけば、牀座施は意外と簡単にできそうだと思いませんか?
 そう考えると、譲るということは、つまるところ「執着心を静かに手放す」ことに繋がると思います。難しいけど少しずつしていけば、意外と気持ちよく過ごせることに気がつくでしょう。そして今まで一緒にいてくれた物事に感謝できるはずです。そこから生まれた感謝の心は、この先もずっとあなたの心を励まし温め続けてくれることでしょう。

☆今日の一句☆

 軽やかに
   譲って手放す
     執着心

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