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やらずの「後悔」も、やっての「後悔」も。

これまでの人生の中で、
後悔していること、ってえのは、
やっぱりいくつかあって。
ときには、そのことをね、
思い耽るように考えてしまったりする。

後悔について、
「やらずに後悔するよりも、
やって後悔したほうが、よい。」
とも言われたりもするけれども。
ぼくとしてはさ、
やらずの「後悔」も、
やっての「後悔」も、
どちらも「後悔」であって、
どちらの「後悔」のほうが、
よいか、なんて言えないな。

仮に、
「やらずに後悔したこと」を
「やった」として、それはそれで
うまくいく場合も考えられるけれども。
それを、もしも、やったことによって
たいへんなことになってしまって、
やらずに後悔している「後悔」よりも、
もっと後悔することになってしまった。
もしくは、その逆として、
「やって後悔したこと」を
「やらなかった」とすれば、それはそれで
やらずに後悔することになる。

つまりはさ、
やっても、やらなくても、
どちらにしても、
後悔していたのやもしれない。

そう考えてみると、
やるか、やらないか、って、
あんまり関係ないんかもしんないな。

たとえば、じぶんが
「やらなかった」ことには、それを
「やらなかった」だけの理由があって、つまり、
「やらなかった」と言うよりかは、
「できなかった」のほうが近くって。そういうような
「できなかった」ことを、
なんとかやろうとしてみたところで、
うまくいくのは、むつかしいだろう。

ともすれば、
やるか、やらないか、よりもね、
やったほうがよいことをやり、
やらないほうがよいことをやらない、というような、
「やったほうがよいこと」と
「やらないほうがよいこと」のふたつを、
見極めることが、たいせつなのだろうか?
でも、はたして、
そんなことはできるんだろうか?!

後悔とは逆にね、これまで、
たのしくって、うれしくって、
本当に最高に素敵で幸せな瞬間だった!
というときもあって。
それはさ、たとえば、
「やったほうがよい」ことをやり、なおかつ、
「やらないほうがよい」ことをやらなかったからこそ、
おとずれた、とも言えるんだろうか。
いや、でも、もしかしたら
そういう面も一理あるとしても、
実際のところはよくわからないなあ。
作為的な部分はあったにしろ、それよりかは、
しぜんとそうなっていった、
という気もするし。はたまた、たとえば、
相手があることなのだとすれば、
じぶん自身だけの策略によって、
その「幸せな瞬間」を成し得た、
とも言えないんだろう。

結論みたいなことを言うんならば、
やるのか、やらないのか、をふくめて、
できうる限りのことを、
できるようであれたら。

そして、
これまでの、及び、これからの、
後悔は「後悔」として、
幸せは「幸せ」として、
それらのすべてを憶えていて、かつ、
考えられるようであれたら。

令和4年11月8日


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