仏教に学ぶ生き方、考え方「お寺の鐘のお話」
「お寺の鐘はうるさい?!」
最近、お寺の鐘がうるさいから止めてほしいと苦情を言われる方がお見えになるそうです。お寺のたくさんある京都でもそのように訴える人が増えてきているそうです。たまに聞くのはいいけれど、毎日聞かされるとうるさいな〜と感じられる方も見えるんですよね。確かにその気持ちもわかります。うるさいと思い始めたら、どんどんその気持ちは大きく膨らんできますよね。
そもそもお寺にはなぜ鐘楼があるのでしょうか?鐘を鳴らすのにはどういった意味があるのでしょうか?
鐘の音がうるさいと感じる人はまず仏教徒ではないかもしれません。確かに鐘の音は人を選びません。仏教を信じる人だけ聞こえて、そうじゃない人には聞こえないということはありませんよね。仏教を信じていない人からすると、なぜ鐘の音を聞かされなくてはならないのかという気持ちになってくると思います。
でもちょっと待って下さい。例えば私はキリスト教徒ではありませんが、教会の鐘の音が聞こえてきたら、それはそれで風情があると思います。きっとなにかのセレモニーがあるのか、それともお祈りの時間なのか、キリスト教の人はその鐘の音を聞いて、心休まるひとときを過ごしているんだろうなと想像すると、こちらも穏やかな気持ちになります。
また鐘の音は人を選ばないというのは仏教でいうと「大慈悲心」という考え方につながると思います。これは観音菩薩様が慈悲の心を持って人々を救うときに、みんな分け隔てなく救う心です。皆さんにも救いたい、手を差し伸べたいという気持ちはありますよね?これも慈悲心ですが、救いたいと思う相手が知り合いだったり家族だったりと限られているのではないでしょうか?それに対して誰にでも向けられる慈悲心を大慈悲心と言います。鐘の音はその象徴でもありますよね。だからこの鐘を聞いているすべての人の事を思いやる気持ちになれます。
話は変わって日本には「決して鳴らない鐘」があるのをご存知ですか?それは長野県にあるそうです。今から八十年前の太平洋戦争の物資不足を補うために全国の鐘が供出させられて鳴らせないときがありました。鐘楼は鐘を吊っていないと不安定になるので、代わりに大きな石を吊るしていたそうです。戦後物資不足が解消するとともに全国の寺院で鐘が再び吊るされました。ところが長野県のそのお寺はあえて当時のままにして、戦争での出来事を今に伝えています。
自坊も例にもれず、昭和十八年に鐘楼の鐘を供出をさせられています。そして昭和二十四年に戦争で亡くなられた御同行様の七回忌法要に合わせ、新しい鐘が鳴らされたのです。つまり鐘の音は平和の象徴であり、鐘が鳴り響くということは世の中が平和であるということの証なんです。戦後七十年余り、こうやって鐘の音が鳴り響いて平和のありがたさを、みんなと分かち合ってきたんですね。
自坊では午後四時五十三分から七分間、鐘を鳴らします。鳴らしているときはゆったりと、鳥の鳴き声や風の音、木が触れ合う音に鐘の音が溶け込んでいく様子を聴き入っています。そして五時のチャイムとともに平和の願いを込めて合掌をしています。
鐘の音とともに、そういった歴史やそこに込められている想いも皆さんで分かち合えるといいですよね。
☆今日の一句☆
鐘が鳴る
世の中今日も
平和です