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彼の名は。

近内悠太さんの著書『世界は贈与でできている』を読み返している。
率直に言って素晴らしい本だ。
自分のTwitterを見返してみると過去にこんな投稿をしていた。

私の生き方を少なからず変えた1冊。

愛・感謝・贈与などの超抽象的ワード群を、
具体化するためのヒントが散りばめられている。


『自分らしさを再定義する旅』の道中で
何度も読み返したい
と思う名著だ。

これを読み返すきっかけになった話がある。

私が6年の歳月を共に過ごした"相棒"との物語だ。

6年前にひょこっと現れた小さな彼。
しかし彼はもういない。

彼との物語を書こうと思う。


彼が生まれたのは2015年の夏頃。
暑かったか寒かったのかも記憶にない。

というより2015年について、
何の記憶もないことに気付く。

年齢が28歳だったことは間違いないが、
全くピンとこない1年だ。

脊髄反射的にスマホを手に取る。
Google先生の出番だ。

『2015年 出来事』ポチッ

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ふーむ。
タイムラインを読み記憶の回復を感じる。

そうだ。
パリでのテロを皮切りに世界が混沌としていた1年。

ニュースは危機感を煽り、心が疲弊していた。

それで記憶が抹消されているのかもしれない。
自分を擁護してみる。

それでも日常は平和だった。
上司と行った居酒屋での記憶が蘇る。

ここは、北寄貝やホタテ、ハマグリなどの二枚貝を机上コンロで焼いて食べれるお店。
内装はラフで特徴はない。
貝を持ってきてくれる店員の顔。
香ばしい貝の匂い。20年前の夏メロ。

記憶は貝と一緒だ。
時間とともに新鮮さが失われる。
しかし突然思い出した記憶は、
新鮮だと勘違いするからやっかいだ。
まるで昨日のことのように思い出していく。

頭の中に甦る世界に熱燗をすする青年がいる。
背広は着ていない。
やせ型でスリムパンツを履いている。
熱弁をふるっている彼の顔は赤い。

憲法9条の解釈について、
40〜50代の同席者へ執拗に尋ねている。

「所長はどう思いますかぁ~?」

その口調は日本語なのかすら怪しい。

右手に持ったとっくりの中には、
"豪快"というお酒がなみなみに入っている。

そしてそれは、
左手のおちょこが空になるのを待ち構えていた。

私だ。完全に酔っている。

2015年の夏。28歳の私が45歳の上司を居酒屋に誘い、徴兵制やISについての議論を吹っ掛け、3~4時間あーでもないこーでもないと話していた。

そして決まって最後には、
「子供が戦争に巻き込まれないように祈ろう!」
と祈祷。2人で行きつけのスナックへ旅立っていく。

授かるかも判らない子供のために
酒を飲んで祈っていたのだから大変熱心である。

平和な日常にムズムズして、勝手に有事ムードになってたんじゃないかとも思うが、解決策はない。
祈る事しかできない無力さがそこにあった。

とにかく心が疲弊していた1年だった。

さて2021年。コロナ禍もたいそうな有事だ。
ワクチンの接種は遅れている。
オリンピックもどうなるか不明。
5月には3回目の緊急事態宣言が発令。
まだまだコロナ禍はカオスだ。

2015年とは異なるが、
心が疲弊しているという意味では似ている。

さて、この有事のさなかだが、
私は心ではなく体のメンテナンスを行った。

そう。2021年4月27日に、
6年間一緒に過ごした彼との別れを済ませたのだ。

彼は大事なプレゼンや友人の結婚式、
娘の出産にも立ち会った。

生まれてすぐは気にならなかったが、
徐々に存在感を増していく。

そして3歳になる頃。
黒ずんだ頭から臭い液体を出し始めていた。

愛着も生まれていた。
でも、いずれ別れが来ることは判っていた。

2019年に別れ話をする。
その時はまだ小さかったので一緒にいると決めた。

決断したのは2021年2月だ。
知識もなく1人では判断できなかった。
仕方なく『医者』と呼ばれる人に相談した。

担当は形成外科の先生。50歳前後か。
とてもドライな印象だ。
サージカルマスク越しに、もごもご話す。
その声は恐ろしく小さい。

日本人向けリスニングテストをやっても、
成人正答率は20%以下ではないだろうか。
その小さいが合理的な言葉に全神経を集中する。

「悪さをするかもしれないので切りましょう」

心臓の真上あたりに1軒家を構えていた彼。
合理的な意見に反論もなく、別れを決断した。

意を決して。おさらば!

といきたいところだったが、
3月に予定した手術は延期になった。
私が手術の2日前に発熱したのだ。

このご時世。
熱が下がってもPCR検査が待っている。
そこでめでたく陰性でも、
"隠れ陰性"というやっかいなものが疑われた。
こいつのタイムラグは大きい。
溜まった仕事を片付けるのに3週間以上かかった。

こうして1ヶ月のロスタイムが発生した。
しかし私は仕事に忙殺されていたので、
彼のことを考えている余裕はなかった。


「4月中なら再診察はいりませんよ」

ふと優しい目をした看護師さんの
言葉を思い出してしまった私。
5月になると再診が必要になるのか!!

コロナ禍。病院に行く回数は減らしたい。
慌てて予約の電話を入れ
「4月27日なら空いていますよ」と言われ、
ほっとする私。

こんどこそ意を決しておさらば!!

「やいまさお!お前が良いものを食べすぎたからこうなったんだぞ!」

「ずっと一緒にいたじゃない。切り捨てるなんてあんまりだよ。」

「もう臭いにおいは出さないよ」

なんだかそんな声が聞こえてきそうで悲しくなる。
しかし致し方ない。問答無用。えいっ!!

  ~ スバッ!  ~  ズバッ!  ~


執刀。

部分麻酔なので意識はしっかりしている。
傷口に痛みはない。
カメレオンの目のようなライトが眩しい。
滑舌の悪い先生はプロ手術師に変身した。
胸部だけ穴の開いた特注シートがかけられている。
患者に血を見せないための配慮なのだろう。

新しい経験とはいつだって好奇心に溢れている。

恐怖心ですら好奇心の裏返しだと思ってしまう。

ただ寝ている状況で、
脳に5倍の生産性を求めることはそう無い経験だ。


冷たいベッドで妄想に浸る。

「彼は何のために生まれてきたんだろう」 

答えはシンプルじゃないか。私を守るためだ。

彼は老廃物を溜めてくれていたのだ。

「あぁ、私はまた生かされた」

幾多もの自己犠牲と贈与の上に立ち生きている私。

贈与。
『世界は贈与でできている』という本で学んだ。

贈与と愛の関係について書かれていた。

しかし、彼からの愛は自己犠牲であり、
贈与ではなかった。

自己犠牲による片思いの愛だったから
彼は旅立ってしまったのだ。

そう解釈するとしっくりくる。

貰った愛は他者へ渡していかなければならない。

こうやって知らず知らずのうちに
私は愛をもらっている。

愛は循環するもの。

他者へ愛を贈与することでその循環は始まる。

循環の始まりは、親が子に与える
『無償の愛』だと思っていた。

しかし、無償の愛はそこかしこに存在していた。

彼から貰った愛も無償の愛ではないか。

その愛の存在に気付くことが最も重要なんだ。


「大丈夫ですか~?」

看護師さんの言葉で妄想の旅が終わる。

目の前ではあの小さい声の先生が、
黒い糸で縫合を行っている。

手術が終わろうとしていた。

~          ~         ~

5月3日。
静かなゴールデンウィークに抜糸を行い手術完了。

長期休みは分散した方が良いというのが私の主張であることは間違いない。

コロナ禍で尚更そう感じていたが、
こう静かだと正しい主張なのか自信がなくなる。

この静かなゴールデンウイーク。

『世界は贈与でできている』を読みながら
哲学している時間は幸福だった。

『愛の贈与』は自分らしさを再定義する旅で重要な役割を担うと確信した。

また次の日常でも隠れた愛を探してみたい。


ところで彼の名は『粉瘤(ふんりゅう)』という。

”皮膚下に袋状構造物が生成され、その袋の中に本来は皮膚から剥がれ落ちるべき垢や皮脂がたまってしまうことでできた腫瘍の総称”

彼の説明書にはそう書いてある。


コロナ禍。心だけではなく、
体のメンテナンスも時折しましょうね!(^^)/
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                  まさお。

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