「言論の自由」と人権
差別発言など反社会的な言論は人権侵害であって許されないことを説明する。
「他者の人権」は「表現の自由」より優先する
言論の自由(表現の自由)は、日本国憲法の第21条によって、基本的には保障されている。ただし、誰が何を言ってもよいということには、当然ならない。他者の人権を尊重する限りにおいて、自由が保障される、と考えるのが自然である。言い換えると、「他者の人権」(憲法上の表現では「公共の福祉」)は、「表現の自由」より優先する。
「表現の自由」に限らず、「信教の自由」も同様で、ある宗教団体が「公共の福祉」を損なっている、多くの人の人権を侵害していると認められる場合、「信教の自由」は優先しない。
現行の憲法では、「公共の福祉」が人権を制約するとは直接的に明言していない。過去の判例により、公共の福祉の解釈が次第に人権の制約の根拠として認められるように変化しており、憲法学者らによって継続的に議論されている(例えば棟居快行「人権制約法理としての公共の福祉論の現在」)。
「差別への批判」は差別ではない
差別への批判は当然差別でもなければ「言論弾圧」でもない。元の差別発言自体が他者の人権の侵害であり、発言者が不当な権利を行使している。これらの順序を無視し、また、恣意的な構図を設定して、「差別への批判」の段階にのみ着目するような主張は、極めて悪意の強い、反社会的な言論態度である。
反社会的言論態度は制限されるべきである
一般に、反社会的な勢力の(反社会的な)主張においては、「他者の人権」(「公共の福祉」)が軽視され、優先順位を無視した主張がされる。また、同様の(愚かな)主張は執拗に繰り返され、社会の言論の質を著しく低下させる。このような言論態度をとる発言者は、即座に社会的発言権を制限されるべきである。
人権の概念を発展させ、社会の言論の質の「底上げ」をする社会制度の実現が望まれる。言い換えると、2023年現在、反社会的な人格から、社会的に発言する権利を制限するような社会制度は、存在しない。そしてこれは日本に限らない。
躊躇せず無視するべきある
差別やヘイトスピーチをはじめ、反社会的な言論が社会から消えないのは、社会制度の問題であって、それらに存在する意味があってのことではない。この状況が改善されない間は、反社会的言論態度を厳しく批判し、それらの主張を無視することは、社会的正義であり、説明可能な真っ当な行為であり、ためらわれるべきではない。
反社会的言論態度に関しては、後ほど別の文章で検討したい。
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