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「Imagine」【エッセイ 意見文】二八〇〇字

 いいのだよ。「NO WAR」「STOP WAR」と訴えるだけで。
    「Imagine」を聴き、願うだけでも。

ヘッダーの写真は、Wikipedia 「ウクライナの国旗」より「ウクライナの小麦畑」Photo by Heulwolf

 またまた戦争が起きてしまった。幼子や子どもを含め多くの命が奪われている。停戦交渉が始まったが、いまでも、さらに犠牲者が増えている。いま、われわれができることは、「殺し合いは、“絶対”にダメ! 戦争反対!」とnote、SNS等で訴えること。「NO WAR」「STOP WAR」と。いま世界で拡がりつつある。あなたも(戦争に賛成する人はいないだろうから)。まず戦争を始めたロシア(いや独裁者プーチン)に対して。
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 あ、一言。(破滅型の議論を繰り返すつもりはないから、でも、良ければ)声を聞かせてね。読んでいただけるだけでも、もちろん、嬉しいです。5分で読めます。お時間をください。

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 戦争が起こると強まるのが、防衛論議である。当然である。まずは自国を守ることが第一。しかし、そこで警戒しなければいけないのが「軍備拡張」論者の声が強まること。とても危険なこと、と思う。「軍備拡張のジレンマ」。“軍拡競争に絶対的なゴールはないはず。永遠に競争し続けなければいけなくなり、かつ単に他国よりも優位を保っているという相対的なものでしかないのに”という軍拡の限界を示す言葉。軍拡は、相手に「口実」を与えるだけ。

 案の定、「あの方」が持論を展開した。今週の日曜日(27日)、わが「軽」愛する安倍元首相がおっしゃった。「北大西洋条約機構(NATO)加盟国の一部が採用している『核共有(核シェアリング)』について、日本でも議論をすべきだ」と。彼が示す針路の逆を行けば「正解」と思っているので、またまた「ありがたいこと」をおっしゃってくれたな、と思ってしまう。
 アベ何某の「核共有」は、米国の核兵器を非核保有国が自国領土内に配備して運用(使用できるように)することを意味する。発言は、フジテレビ系「日曜報道 THE PRIME」(日曜午前7時30分)でのこと。番組コメンテーターのハシモト何某も、「核は絶対に使ってはいけないが、核共有の議論は絶対に必要だ」と同調した(「絶対」という言葉が好きな人である)。非核三原則については「持ち込ませず」の部分を見直すよう求め、今夏の参議院選挙の争点にすべきだと主張した、らしい。
 一方、アベ何某は、「27回」(筆者が「」カッコを追記)に及ぶ日露首脳会談の中で、プーチンがNATOの東方拡大に強い不満を漏らしていたことを明らかにした。また、「(NATOへの)不信感の中で、領土的野心ではなくロシアの防衛、安全の確保の観点から行動を起こしているのだろう」と、プーチンのウクライナ侵攻決断の背景を(「親友」ウラジーミルに同情するかのように。筆者追記)分析した。
(「FNNプライムオンライン」から。  https://www.fnn.jp/articles/-/322076 )

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 ロシアのウクライナ侵攻に対して、米国やEUが武器提供や資金拠出をしても、派兵できないのは、確かに、ロシアの「核」が抑止力になっているとも言える。しかしプーチンは、その動きを見透かすように、核の使用も可能とする「核の特別警戒態勢」をちらつかせる。いかに限定的な小規模核爆弾といえども、いったん使用されれば、その連鎖で行きつくところは、「世界の破滅」である。今年1月3日に、ロシアを含むアメリカ、中国、フランス、イギリスなど核保有5か国は「核戦争に勝者なし」の共同声明を発表したというのに。

 日本国憲法。「アメリカが作った」憲法と、改憲論者がよく言う。私はそう思わないが、あえて言うなら、アメリカはこう考えたかもしれない。特に、第九条。「日本は性懲りもなく戦争を再度考えるかもしれない。だから、そうならないような憲法を作ればいい」と。つまり、裏返せば、第九条の「精神」を忠実に守っていれば、自衛しているだけで戦争を仕掛けることはしていないと、世界が認めることを意味する。

第2章 戦争の放棄
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する 手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。

 「陸海空軍その他の戦力」は保有しないとしているが、世界の多くの国は、「自衛隊」つまり、「自衛のために必要な範囲」の武力までは認めている。ところが、前掲の(非核三原則の見直しまでしての)「核共有」や、最近、一部の与党政治家が口にする「敵基地攻撃能力」は、明らかに、日本国憲法第九条の自衛の範囲を超えるので、「誤解」を与える可能性が強くなる。なぜなら、
 前者は、自衛のための核が認められるのか(特に日本に)、相手国に脅威を与え「誤解」を与えるだけでないのか。
 後者は、敵が攻撃しようとしているかどうかを、どう判断するのか、である。これまでの戦争は、「相手国が先に攻撃してきたから、仕方なく攻撃した」と、正当防衛を主張し、泥沼になっていった。世界中に「防犯カメラ」があるわけでなく。先制攻撃を証明するのは、不可能だろう。
 とするなら、第九条の「精神」どおりに国防を考えていれば、(少なくてもアメリカを始めとした連合国は)「日本が戦争をしかける」という「誤解」を招くことはない。つまり、相手国に攻められる可能性を極めて低くする、と言える。しかし、戦争が起こる都度高まる国防意識に便乗した「軍備拡張」論とか、最近の「あの方」のような発言が出てくるのは、本末転倒と言わなければならない。
 第九条の「精神」は、攻めようとする相手国の「口実」「言い訳」「言いがかり」を不能にするだけの価値がある。しかし「自衛隊」を「軍隊」に変えるだけでも、そのきっかけを与えてしまう危険な行為になる。過去に過ちを犯した実績がある日本だから、なおさら。

 現自衛隊の自衛の範囲であるなら、(百歩譲ってではあるが)認める。しかし、私の理想は、「非武装中立」。だが「絶対」とは言わない。「軍備拡張」論者がよく使う「丸腰で攻撃されれば座して死ぬことになる」をどうするか、があるからだ。その問いに、私は、「殺されたくないが、人を殺したくもない」との、生き方(死に方)の信条だけは持ちたいと、答えたい。同時に、非武装の国を攻めるようなことが起こったとしても、攻めた国の「言い訳」「口実」は認められないだろう。そんな国を、無防備な国を攻撃するだろうか。狂人と化した「国」でない限りは(プーチンがそうでないことを祈るが)。
 
 ニーチェは言う、「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」と。

(最後に敢えて言いたい)
 ウクライナ報道で気になる事がある。ゼレンスキー大統領をはじめ政府は、火炎瓶の作り方を教えていると、聞く(「竹やり」を連想させる)。結婚予定のカップルが式を早め夫婦になり、2人とも銃を持って戦うと、その姿が映っていた。銃を持たぬもの、戦わぬものは、「非国民」と言わんばかりの空気感だ。マスコミも、「勇敢な国民」と伝えていないか。銃を持つウクライナ市民を美化してはいないか。どこかの国のちょっと前の、「一億総玉砕」と、絵が重なる。

最後の最後に、安倍さん。
「晋三、ウラジーミル」と呼び合う関係なんでしょ?「28回目」の会談で、「ウラジーミル、ヤメンカイ!」と、「敬愛」するプーチンに言ってやるべきではないか。

さあ、歌おう。
You may say I’m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will live as one
(ここで描かれているのは、非武装中立を越えた理想郷、である。それを世界の多くの人が歌っている)

そして、「NO WAR」「STOP WAR」と、叫び続けよう。

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わがnote仲間(アルプ・スナフキン君)の記事でも


今後増え続ける「難民」を支援することも。わが友「星の汀」さんが

ノリノリさんも声を上げています


(私にしては、かなりの)長文でしたが、読んでいただき、ありがとうございました。

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