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沈黙【エッセイ】八〇〇字

 海外に出かけた際、ホテルなどで欧米人の方に出会うと、ちょっとした声掛けが、よくある。つられてだが、日本人の私でも、「グッモーニン」ぐらいは、言うことにしている。
 ある日曜日の朝。エレベーターに、途中階で小学低学年くらいの、男の子が乗ってきた。軽く会釈があったので、「どこか遊びに行くの?」と訊くと、「紀伊国屋書店に行きます。欲しい本があるんです」と答えた。自宅マンションの住人は、比較的、挨拶を交わすほうだった。しかし、コロナ禍以降少なくなっただけに、この子に、救われた気持ちになる。
 鴻上尚史の『「空気」を読んでも従わない』に、こうある。〈エレベーターに乗ると、日本人は、全員が黙したまま、決して目を合わせず、じっとドアの上に表示された階数の数字を見つめています。(中略)欧米では、必ず、目礼か会釈か、会話が始まります〉、と。
 確かに、国内でも、欧米のひとと一緒になると、多くは、目礼。ときには、「ハーイ」か「グッモーニン」や「グッイブニン」、も。
 何度かそんな経験をすると、日本のホテルやレストランでも、「サンキュー」はもちろん、ぶつかりそうになったら、「イクスキューズミー」も、自然に出てくるようになった。
 しかし、鴻上の本を読むまでもなく、階数表示をじっと見つめるひと、スマホを見入るひとが、ほとんど。あまりにもシャイすぎると思えて、同調したくない。「意地でも階数なんか見ないぞ」とばかりに、まっすぐ前を見つめているか、周りのひとに、ニヤっと笑顔を作ることにしている(気味悪いかも?)。
 ある日。外出から戻りエレベーターに乗ると、三人が入ってきたので、奥に。ボタンを押し忘れていた。すると、「何階ですか?」と、男の子に訊かれた。「あ、〇階、お願い。ありがとう」と言うと、彼は軽く会釈をして微笑んだ。あの紀伊国屋書店の子、だった。

(後記)
早稲田EC「エッセイ教室」秋講座。最終のお題は、「沈黙」。すぐに「メディアの沈黙」と「ジャニーズ問題」が浮かびました。が、それを書いてしまうと、どうせ師匠は、「菊地さんは、当然書いてくるだろう」と思っているだろうし、800字では浅くなってしまう。そんな問題ではない。なので、やめました。(笑 「全体主義」と絡めて書くつもりでいるのですが、あまりにも問題の本質が奥深くペンが止まっています。いずれ投稿する予定です。今回は、3年前に投稿した『空気』を、『沈黙』の題に沿うように書き換えたものを投稿しました。読んでいただいた方も多くいらっしゃるかと思いますが、『沈黙』として成立しているかどうかをご判断いただければ幸いです。

(おまけ1
誰かが、どこかの時点で、その「怨念」をぐっと抑え、「もうこれ以上は殺さないで」と叫ばなければ、連鎖は続く。歴史をちょっと知ると、イスラエル側でもパレスチナ側でもなく、複雑そうに見えるが、「道徳的には、(「人権的には」)何も複雑ではない」。

朝日新聞朝刊(11月29日)

(おまけ2
朝日新聞夕刊(11月22日)の記事です。夕刊も目を通してはいるつもりですが見落としていて、句会仲間の友人に教えてもらいました。メジャーな賞になっていくと良いですね。

朝日新聞夕刊(11月22日)


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