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「夕鶴」(3の1)【エッセイ】一六〇〇字

―『ゆう子抄』と吉四六劇団と、私―

 「君は、大器晩成型だね、きっと」と、寺の和尚に言われたことだけは、はっきりと記憶している。

 大学1年の夏休み。数週間、大分の劇団で生活を共にしたことがある。大分の民話、「吉四六さん」を専門にする、「造形劇場」という劇団。代表は、野呂祐吉さん。奥さんと長男を中心に、劇団員4、5人と暮らすファミリー劇団である。自給自足をめざし、農業を営みながら、九州の小・中学校を中心に巡回して公演をしていた。
 この劇団を知ったのは、札幌で浪人しているとき。高校の演劇部で同期だった高田くんが、その後2年途中で中退し、この劇団に入っていた。2年間在籍し、札幌近くに戻っているときに会い、話を聞いたのだった。
2浪を経て、大学の演劇学科に入ったとき、紹介状を野呂さんに送るから行ってみたらと、彼から勧められていたのだった。

 「吉四六(きっちょむ)」というのは、焼酎の銘柄にもなっているが、豊後に伝わる民話「吉四六ばなし」からきている。代官、武士、庄屋などの権力者相手に、何の力も持たぬ貧農民、吉四六が、「とんち」だけで抵抗して行く話だ。野呂さんが、反権力の姿勢を貫くことと重なる。主人公の吉四六と妻のおへまは、200年以上前の実在の人物のようだ。

 その数週間の大分での記憶はおぼろげであった。が、半世紀後の昨年、劇団のことを検索していると、劇団そのものの情報は少なかったが、ある本に出会い、少しづつ記憶が蘇ってきた。大分の作家、松下竜一の小説『ゆう子抄』だ。野呂祐吉さんと劇団のことが書かれてあるのだ。その「ゆう子」というのは、当時、野呂さんの傍にいた女性で、2人の恋愛物語の本だった。その「ゆう子」とは会ったような気がする。劇団を離れる少し前に入団してきた女性がいた。年齢は少し上で、同じ大学の演劇専攻と言っていた。しかし、私が遅れて入学したのと、彼女は中退したようで、重なりはなかった。

 小説によると、「ゆう子」が、最初に劇団を訪ねた年が1971年。野呂さん側のトラブルがあり、いったん離れるが、最終的に正式な入団のために戻ったのが、1972年8月27日。まさに私が滞在したと思われる時期。たぶん、その後、私は大分を離れたのだと思う。『ゆう子抄』によって記憶の糸のもつれが徐々にほどけてきたのだった。やはり、「ゆう子」は、その女性だったのだ。

 「ゆう子」の本名は、池ゆう子。新潟出身。演劇とは無縁のサラリーマン家庭で育ち、1967年、早稲田の文学部に入学。大学紛争の最中。様々な思想・運動・人間関係の波の中で、「ゆう子」は、大学を中退する。日仏学院に籍を置いていた21歳のとき。生きる目的を見失いかけていた。そんなある日。NHKラジオの番組「ここに生きる」で、野呂祐吉の演劇、劇団への想い、「演劇と農業との創造的統一を実践したい」との夢を聴き、運命を感じ、その1週間後に、野呂さんを訪ねる。
 野呂さんと対面し、「ゆう子」は自分の選択は間違っていないと、確信する。数日後に、東京に戻るが再訪し、入団する。しかし、両親は猛反対。大分に2回訪れ、その年の12月に、「ゆう子」は、両親と新潟に戻る。
 野呂さんも問題を抱えていた。一緒に劇団を経営し、吉四六さんの妻役も演じてきたママさんが(みんなママと呼んでいた)、出産時の病の影響があって、精神的に不安定になり、入院していた。病が進行し、野呂さんは、劇団を続けられるかどうかの、悩みを抱えていたのだった。私が滞在中も、ママさんはいなかった。長男の悟くんに聞かされていた。
 
 郷里に戻ってから、正式な入団まで、野呂さんと「ゆう子」の愛の手紙が、10か月にわたって、頻繁にやりとりされる。
(その内容は、本書に委ねる)

(3の2に、つづく)4日(土)9時アップ予定

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