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未熟(3の2)【エッセイ】三〇〇〇字

このエッセイは、先週の土曜日にアップした(3の1)の続きです。
当初、2回連載の予定でしたが、6000字を越えそうなので残りを2回に分けることにしました。

スウェーデンと日本 ―政治の決定的な違い―

1) 政治家は質素
・質素な国会議員の執務室
・秘書や個人的な助手はなし
・議員報酬は小学校教師の二倍
・議員には終身恩給もない
・お抱え運転手もなし
・ファーストクラスの航空券もなし
(『あなたの知らない政治家の世界―スウェーデンに学ぶ民主主義―』から)

 歴史的に見ると、日本の政治は明治から一部の金持ちによって執り行われてきた。しかしスウェーデンでは、中世のころから農民も普通の市民も、議会に参加してきたのだ。そのことが、報酬面でも表れている。政治家といえども一般国民の年収と大きくは変わらない。
平均で約952万円(世界20位)(日本は、3位:約3014万円、米国5位:約1914万円)
*イギリスの調査「This is what politicians get paid around the world」

 これでは、金目当ての人間は政治家になろうとは思わないだろう。純粋に政治を考える人間だけをふるいに掛けている。しかし、報酬が少ないがゆえに利権を利用し悪事を働く可能性は残る。そこで、国民の厳しい監視が入る。

 ここに象徴的な話がある。
 第二次世界大戦から戦後にかけて首相を2回務めたペール=アルビン・ハンソンは、電車通勤していたのだが、帰宅途中にストックホルム市内で路面電車から降りようとした際、心臓発作により急死。日本のように運転手付きの専用車ではなかったのだ。

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2)透明性
 スウェーデンでは、1766年に世界に先駆けて透明性にかかる(情報開示の)法律を作った。日本のように、黒塗りの文書が出されるとか、文書が改ざん・廃棄されるということがない。厳格に管理されている。この透明性があるからこそ政府を信頼し、高率の税金であっても払うのであろう。かつ、税金の使い方には厳しくチェックが入る。

3)高投票率(特に20代は大きな差)
 スウェーデンの国政選挙の全体投票率は90%近い。日本は、50%強。20代では、80%強に対して、日本は約30%。なぜ、スウェーデンの投票率は高いのだろうか。
 「質素な政治家」と「透明性」の前提があるだけでも投票率が高くなるのは、納得できる。さらに、その率を維持し引き上げるための教育システムがある。政治に無関心でいるほうが難しいのではないか。
 小学6年の社会科の教科書には、投票に行くことはもちろん、自分の意見を社会に反映させるために集会やデモを行うことが大切だと書かれているようだ。さらに、学校内では投票が行われることが多い。例えば、新しい遊具を買うとき、限られた予算でどんな遊具にすればいいのか、全校児童で投票して決める。高校生になると、国会に集まることがある。さらに大臣と国の課題について議論することもある。その内容は、議事録にのり、実際の政策に反映されることもある。スウェーデンの子どもたちは、自分の意見が学校や地域、そして国の政治にも反映されているという体験をしながら、政治への関心を高めていく。「当事者意識」は、子どものころから培われている。日本とは、明らかに異なる。

日本の政治は、「先生」文化

 スウェーデンの高社会保障制度は、(金目的の“政治屋”ではなく)政治に誠実な人を国政に送り込むことによって築かれた透明性の高い政治体制がベースとなって、実現されていると言っても過言じゃないだろう。
 スウェーデンの庶民的な政治家と違って、日本では政治家を「〇〇先生」と呼ぶことが多い(ひとによっては呼ばせることも)。この「先生」という呼称が、「特権者意識」にもつながり、国民の意識と乖離しているのではないか、と思う。
 「先生」を広辞苑で引くと、<先に生まれた。また、その人に対する敬称><学徳のすぐれた人><学校の教師><医師・弁護士など、指導的な立場にある人に対する敬称>などとあり、最後に、他人に親しみをもって、またはからかって(センセイといわれるほどのバカでなし、という川柳にあるように)呼ぶ称とある。日本の政治家を見ていると、「親しみ」ということでもないようだ(「からかい」のほうが当たっている)。いや、自分の金儲けに貢献してくれるから、「先生」なのかもしれないが。
 そもそも、政治家が「先生」と呼ばれるようになったのは、国会が始まった明治時代ごろとする説が有力らしい。現在の秘書にあたる「書生」らは当時、多くが議員宅に住み込んで仕えていた。そんな書生にとって、議員は政治を教えてくれる「先生」のような立場であり、親しみも込めてそう呼ぶようになったと推察されるという。議員を指す「先生」とは「政治の世界の先生」のことだったようだ。
 最近、9月28日のこと。大阪府議会は、議会運営委員会で、府の職員に対し議員を「先生」と呼ばないよう求めることを決めた。議員に「私は偉い」という特権意識を生みかねないというのが理由。先生という呼称は決して適切ではないと断言する。「威張ったり、役人に対して当然のようにいろいろな要求をしたりする議員もいる。先生と呼ばれて持ち上げられるうちに勘違いし、これが助長される側面はあるだろう」としている。
 他の自治体でもこの動きがあるようだ。地方政治のほうが革新的な動きがとれるのかもしれない。
(ついでに「教師」や「医師」、「弁護士」についても、その呼称はやめた方が良いと思うのだが、そのことは、⦅おまけ⦆で)
 
 いまの日本の政治体制なら、仮に私が総理大臣だったとしても、自ら進んで質素な生活をしょうと思わないだろうし、政治を学校教育で教えるような「余計な」ことはしないだろう。自分の首を絞めることになるからだ。日本では、政治家をやっていると報酬以外にもいろいろな見返りもある。政治に関心を持つ国民が増えたら、追及されるだろうから、そのまま無関心のままでいて欲しいと思うだろう。
 これが日本の現実だ。しかし絶望していたら、日本の未来はない。スウェーデンのような民主的な政治体制を実現するには、長い時間が必要かもしれない。しかし、政権のチェック機能を高めるような構造にすることなら、5年、10年くらいでもできるかもしれない。
(3の3に続く)

(おまけ)

 ついでに、「教師」や「医師」、「弁護士」についても、「先生」の呼称はやめた方が良いと思う。「教師と生徒」「医師と患者」「弁護士と依頼者」は、対等なのだ。学校教育時代の習慣から、どうしてもその人との間に「上と下」の関係性を前提とした「見えない壁」ができあがっているように思う。
因みに、「先生」は、英語では“teacher”。日本の場合は「〇〇先生」と呼ぶ(ことが圧倒的)が、英語圏で「先生」のことを、“teacher〇〇” とは呼ばない(professor〇〇と呼ぶかもしれないが )。ファミリーネームで普通に呼ぶ(ひとによってはファーストネームもある)。日本も、そろそろ、「〇〇先生」はやめて、「〇〇さん」にしてはどうだろうか。政治家ほどではないにしても、「威張っている」先生もいないこともないのだから。できれば、愛称、ファーストネームで呼べたら、学校の風景も変わるのではないか。


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