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「飽き性」【エッセイ】一四〇〇字

 これまでの人生で23回、引越し、24の街に住んだ。アメーバのごとく、気がむくまま。

 「引越し魔」は、昔の偉人さんにも多くいたようだ。有名なところでは、ベートーベンが、56歳で生涯を終えるまで79回だったらしい。日本では、葛飾北斎。90年の人生のなかで93回。江戸川乱歩は、生涯の転居回数は46回。みな一桁まで正確かどうかは怪しいが。
 その大先輩がたには及ばないが、私の、一か所に長く住めない性分は、相当なもの。これは、父親の職業に由来する(と思う)。父は、米などの検査をする農林省の食糧庁(いまはない)の検査官をやっていた。米の等級を査定する。農家の収入に大きく影響するから癒着を避け、短期間で異動させられる。短い場所で、半年ということもあった(悪さをしたわけではない)。父親の職業が影響したケースは、江戸川乱歩がそうだったようだ。父の仕事が諸説あり定かではないが、その性癖の原因は、幼少期の父親の転勤だそうだ。
 小学時代、5回転校している。北海道の(いまでは観光名所)美瑛・美馬牛で生まれ、3,4歳の頃、「北の国から」の舞台、富良野・麓郷で小学一年まで暮す。その後は、ほぼ1年で、富良野・下金山、旭川の北にある愛別。「ひまわりの里」で有名になった北竜・碧水、その近くの雨竜・追分。そこで小学を卒業し、中学、高校と転校はなかったが、父親の転勤は2回。

 ここまで19年の人生(高校で留年がある)で、私の「引越し魔」の将来が決まったようなものだ。
 浪人することになり札幌。その札幌でも最初選んだ下宿先を6か月で出て、高校同期がいる下宿に移る(そのときはリヤカーで引越した)。そんな落ち着きのない生活と政治運動への関わりが災いし、2浪。東京・小平に移った。どうにか大学に入り、札幌の2か所目で一緒だった友人と千葉・南柏で同居。しかし、大学及び大学近くのバイト先まで1時間以上かかること、バイト先で知り合った同じ大学の彼女さんとの関係(同棲ではない。彼女は目黒が実家だった)で、早稲田南町に越すことに。むろん、彼から絶交を言い渡される。彼女さんに有頂天になっているので、友情を反故にしても、「愛」を優先するという、罪を犯すのだった。
 その罰が当たったのか、20代のモラトリアムの時代は、25歳で大学卒業後に群馬・太田で2か所。28歳で大阪・上新庄に。その3か月後東京に戻り、吉祥寺東町に。ここまでで、16回の転居を経験することになる。
 三十路以降。17年勤めることになる会社に入り、ようやく安定期に入って比較的落ち着きのある生活をすることになる。しかし、それでも、吉祥寺→三鷹荻窪→埼玉・西川口→杉並・永福町→杉並・大宮八幡。独立後に(再び)永福町、そして「終の棲家」(いまはそう思っている)の新宿とあいなった。都合23回の転居を経験する人生になってしまった。
 人生の中盤からも、こんなに引越しをした(できた)のは、飽きっぽい性格というわけではなく(おそらく)、子にも恵まれなかったからだろう。子がいれば、「ママ友」「パパ友」を通じて、近所付き合いもあり、子どものために転校させるようなことは避けてきただろう。転校が多くなれば、「幼馴染」もできづらい。事実、私がそうだった。
 
 ま、たぶんに飽き性ではあるが、いまの住まいにも人生にもとうぶん飽きることもなさそうなので、次の「引越し」は、しばらく待って欲しい。少なくても10年は、いや20年————。

(ふろく)

こんなに多く住所が変わると、損得両方がある。

(その1)
実は私は、成人していない。
札幌に行ったときは19歳、8月で二十歳になるが、成人式はその年の1月に終わっていた。20歳で東京に行くが、やはり1月で終わっていた。永遠に未成年という、有難い(?)ことがあるにしても、記念品をいただけなかったのは、ちょっと惜しい。

(その2)
昨年、大学同期の入学50周年の集まりがあったらしい。その会に来られなかった(住所不定)卒業生の住所を調査する報せが友人宅にあった。むろん、私は、堂々と名前が入っている。衝撃的だったのは、その大学の彼女さんの名もあったのだ。私は、20代で実家がなくなっている(両親死亡のため)ので、遭難状態になるのはわかるが、彼女は目黒に実家があった。ご両親もご健在だった。ま、うるさい寄付依頼がなくて済むから良いのだけど。どうしたの? “彼女さん” ————。

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