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『一言』【エッセイ】一六〇〇字

自宅から3000歩辺りに、観光スポットのひとつ、神楽坂の街がある。この界隈には、ミシュランに入った老舗など、美味な蕎麦を食べられる店が多い。この店もそのうちの一つ(らしい)。ちょっと手前1700歩の場所。

往復3400歩。この歩数を歩くだけでも、いまの脚の都合を考えれば、上等。脊柱管狭窄症を患ってからは、左下肢が痛み、コンビニに行くのも、やっと。だったのだが、ジムや自宅でのストレッチの効果か、5000歩くらいまでは歩けるようになった。そのご褒美として、週に一回くらいは、ちょっと離れた店で美味しいものを食べることにしている。

今回の店は、初めて。なにを食べるかは、検索魔のワタクシ、事前調査済み。順番まで決めている。蕎麦がきを最初に。次は卵焼き。とイメージし、店に入る。すると、予約席のプレートが目立つ。<あら、予約が必要だったのね>と、一瞬顔が曇る。ところが、
「こちらの8名席でも良いでしょか?」
「ああ、もちろん。でも1名ですよ」
「大丈夫です。相席をお願いするかもしれませんけど・・・」
と、なかなか感じの良い、20代後半(たぶん)の子。
立ち去る前に、慌てて
「あ、このお酒、冷でください」
と酒をまず、確保する。

日本酒をグビリとやりながら、文庫を開く。ページをめくる前に蕎麦がきが到着。5ページも進まないうちに卵焼きが。そこで、お銚子一本と野菜天せいろを、注文。そこで、蕎麦屋にしては話がモリ上がり過ぎの4名が入ってきた。<せっかく静かに蕎麦の味を楽しもうと来たのに・・・>と思いながらも、グビリグビリ、パクパクとやっていた。

やはりいらっした。
「予約なしで3名なのですが・・・」の声が。想定通りに、相席となる。しかし、3名と言っても、30歳前後の若い夫婦とベビーカーに乗った乳飲み子。椅子を一席片付け、おさめる。
「ビールひとつと、せいろをふたつください」と、夫が注文。
子と目が合う。<女の子? 男? なかなかかわいい。お母さんもなかなか美人さん>

まもなく、愛想のよいさきほどの子が、グラスビールを2個持ってきた。
「あ、ひとつだったのですけど・・・」と、夫。
<そうそう、“ひとつ”と言ったよね>
「私は、まだお酒は飲めないですし・・・」と、妻。
「あ、ごめんなさい。ですよね・・・」と謝る、愛想さん。すぐに持ち帰る。

そこで、
<あ、それ私にください。いいですよ。ちょうどいまビールを飲みたいなと思っていたのですから> その一言申し上げればよかったと思ったが、時すでに遅し。

文庫に集中していると、夫の一言、耳に入ってきた。
「人生は、仕事だけじゃないしな・・・」と。
<転職を考えているのだろうか。仕事で悩んでいるのだろうか。そうだそうだ。仕事ばかりじゃない。がんばって>と、思いながら、続きの話に耳立てようとするが、けなげそうな若いお二人。詳細は不明・・・。

そのうちに、野菜天せいろが到着。まもなく、若夫婦の前にも。
お母さんが箸を入れたとたんに、赤子がぐずり始める。
お母さんは、手をとめて抱えゆすりながらあやす。
(2頁めくるくらいで)食べ終わった彼が、赤子を受け取りあやす。
その間に、彼女は急いで食べている。
乳飲み子が一緒。ゆっくりと食べられないことを承知でも、蕎麦が食べたかったのだろう。

<いいんですよ、気にしないですからゆっくり食べてください>
と、一言かけられなかった
さきほどの大人の大声のほうがよほど迷惑。キミたちは気にしなくてもいいのだから。

20分いただろうか、勘定を済ませ、彼女は軽く会釈して出て行った。
私は、<いえいえ、大丈夫でしたよ。気にしないでね。Don’t worry be happy ! >との意味で、手を振るのが精いっぱいで、あった・・・。

店を出て、遅い脚がさらに遅くなり家路についた。調子に乗って三本呑んでしまったのと、一言かけてあげられなかったとの悔いで、帰りの歩数は、3000歩になっていた。

(御口直し)

かの国の元リーダーが、「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないんです」と批判者に向けて発した発言のほうが、まだ愛嬌があった。

東京新聞朝刊(7月29日)

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