疑惑と裏切りとしばしの別れ

「え？」
今度は俺が驚く番だった。俺は間の抜けた声で言った。きっと顔も間が抜けてただろう。
「ほんと？」
「ああ。嘘をつくつもりは無い」
「マジか」
俺は一瞬、心の中で小躍りした。マジでこのおっぱいも、この唇も、好きなだけ触れる――――とそこまで考えかけて、待てよと思った。俺はいつもそうだ。何か良いことが起こりそうになると、なんだか急にものすごく不安になってムカついてくる。
俺はじっと女を見て言った。
「マジでやらしてくれんだな？」
「ああ。お互いにわかり合えたらな」
「トンズラするなよ」
女はくすりと笑いながら、自分のカップに紅茶のおかわりを入れた。
「愛する人を信じられないのかい」
「あい？」
「君は私を愛しているのだろう？」
おれはしらねえと言おうと思ったが、少し考えた。ここでちがうってえのは得策じゃねえ。アホな俺でもそれくらいはわかる。俺はしかめつらしい顔をしていった。
「そうかもしれねー」
「そうか。嬉しいよ」
女はカップにミルクを入れながらからりと笑う。笑うと口がでかくなって、意外と親しみやすい感じの顔になる。
俺はふと、まてよと思った。
「ちょっと待てよ。ちなみに質問て何個あるんだ」
女は手を小さな顎につけ、考えるように言った。
「そうだなあ。一人の人間を、会話だけで理解することは到底不可能だと思うが――――とりあえず絞って20個くらいかな」
「あっそう」
おれはほっとした。20個なら今日にでも終わるかも知れない。そしたらマジで強セックスできるかも。おれは話が現実的になり始めて、やっと安堵してきた。
俺は椅子に深く座り直し、サンドイッチの皿に残ったパセリを口に放り込んだ。
「じゃさっさと始めようぜ。最初は何だよ」
「そうだなあ」
女は考えながら、俺の空のグラスに水を注いだ。伏せたまつげは長すぎて、目の周りに彫刻並みの影が落ちている。おれは興奮しながらその影を見つめた。
「まずはそうだな。君の人生に感銘を与えた本について知りたい」
「本？」
女は頷いて、デッカい胸の前で手を組んだ。
「そう。もちろん、君の感想も含めてね」
俺は黙って、口の中で舌をぐるぐる回した。サンドイッチに入ってたレタスのかすが舌に引っかかって、それを飲み込む。
「本読んだ事ねえ。ゲームじゃだめ？動画とか」
「本がいいなあ」
「なんでだよ」
「私が本が好きだから」
俺は椅子の背からずりずりと落ちた。
「まあ、無理にとは言わない。映画でもよかろう」
「映画も見ねえ」
女は少しだけ残念そうな顔をして、それから言った。
「じゃあ、うーん。そうだ。尊敬する人について聞きたいな」
「いねえよ。ムカつくやつは死ぬほどいるけど」
女は胸の前で手を組んだまましばし無言で俺を見つめた。手札がなくなったらしい。
「じゃあ、好きな歴史上の人物は」
「いねえって」
俺はだんだんイラついてきた。俺の答えられない質問ばっかり聞きやがって。俺は指でレーブルをかつかつと叩きながら言った。
「なあ。この質問ってなんか意味ある？」
「ある」
「何だよ」
「私たちは身体を触れあわすのだろう？」
俺はどきりとした。この女から生々しい言葉が出ると、違和感がすごすぎて戸惑う。
「ならば互いに内面を知ってからの方が良い」
「でも本も映画も見てねえって」
「なら次会うときまでに読んできてくれ」
「え？次？次もあんの？」
女はミルクティーをすすりながら、俺に呆れたような視線を向けた。
「君は私の話をちゃんと聞いているか？」
「聞いてる」
「私たちはセックスするんだろう」
女は涼しい顔でそう言うから、おれは手を膝の間において、もぞもぞと足を動かした。
「あのさ」
「なんだ」
「あんた、セックスとか言うなよ」
「何故だ？君もさっきから言っているだろう」
「俺はいーんだよ。もともとそういう事言ってるから。でもあんたが言うと気持ち悪いんだよ」
「何故だ。君、それは差別というやつではないか？」
女は眉間にしわを寄せる。何の差別だよ。おれは頭の後ろをがりがりと掻いた。
「違えって。なんか――――あんたの口からそれ聞くと、なんか花とか、紅茶の名前みたいに聞こえる。新しく出たスマホの名前とか」
女は俺の言葉を聞いている内に、みるみる目を丸くした。次の瞬間、あっはっは、とアホみたいにデカい笑い声が店中に響き渡った。遠くにいたジーサンがちらりとこちらを見た。おれは椅子に深くもたれたまま、ポケットに手を突っ込んで首を引っ込める。女はまだ笑って目尻を拭いていた。そんなに可笑しいこと言ったか？俺。
「何だよ。ばかにしやがって」
「いや――――気を悪くしたなら済まない。素晴らしく興味深い者の捉え方だなと思って、思わず嬉しくなってしまったのだ」
馬鹿にしやがって。俺は舌打ちしたが、不思議なことに、そんなに嫌な気分では無かった。むしろ、自分が女を喜ばせたことが少し嬉しいくらいだった。
女はひとしきり笑っていると、ウェイターが皿を下げに来た。女は時計を見ながら言った。
「ああ、もうこんな時間か。名残惜しいが、もうそろそろだな」
おれはがっかりして言った。
「ずりい。帰るのかよ」
「君もだよ」
「は？」
「警察がもうすぐ迎えに来る」
「は？何で――――」
女は自分の手首を指さした。おれがはっとして自分の手首を見ると、リストバンドに名前と入院日、医者の名前が書いてあった。馬鹿すぎる。そうだ。これどうやっても取れねぇからつけっぱなしになってたんだった。
ハメられた。
おれは勢いよく立ち上がった。あたまがくらりとし、地面が揺れた。しかし、視線の先に、女の変わらない涼しい表情が目に入ったとき、怒りで身体が震えた。こいつは最初っから、おれをからかうつもりだったんだ。
俺はふらつく身体を立て直し、グラスの水をぶちまけようとした。しかし、グラスはすでに下げられていた。次に椅子を思い切り蹴ろうとしたが、椅子は遠くに置かれていた。
「ふざっけんなよ！」
いらだちが爆発しそうになり、俺は携帯を机に打ち付けようとした。しかしそれも、あえなく不発となった。女が自分のふわふわの膝掛けをさっと机に出したからだ。
「邑楽君」
女は落ち着いた声で俺に呼びかけた。俺は何故かわからないが泣きそうになった。めちゃくちゃな気分で机に。
「サイテーだ」
「もし君が騙されたように感じてしまっていたら、すまなかったな」
「うるせえ豚女。クソ女。嘘つき女。馬鹿にしやがって」
女はぽつりとつぶやく。
「うそはついてないぞ」
俺は女を睨みながら言った。
「ついたじゃねーか。バカやろう。はじめから俺とまた会う気なんて一つも無かったんだろ」
俺は言っててなんだか涙が出そうになった。バカはおれだ。
「あるぞ」
女は俺の視線を全部受け止めるみたいに、毅然とした表情で、まっすぐこっちを見ながら言った。
「私は、今日はとりあえず帰ろう、と言ったんだ。治療も、法的手続きも大事だからな。だから、それが終わったらまた会いに来れば良い」
女は皮で出来た茶色いバッグの中から、小さなカードを取り出した。そこに万年筆で何かをすらすらと書いて俺に差し出した。
「これはわたしの電話番号と、メールアドレスだ」
おれは車椅子の側まで行って、それを一億円くらいの価値あるものみたいに丁重に受け取った。四つ葉のクローバーの金の箔がついたカードには、綺麗な文字が並んでいる。
「無視すんなよ」
「もちろん」
少し黙ってから俺は聞いた。
「いつ会えんの」
「君の治療と、法的措置が決定したらかな」
「待てねえよ」
「それは君、待つ時間は一番の人間関係のスパイスだろう？」
「でも会わない忘れちまう。いろんな事」
「では、忘れないように手紙を書いてくれたまえ」
おれは眉を寄せた。この女はまた変なことを言ってる。
「書くことが無くてもいい。そうだな。君のフルネームがわかればいいさ。私への質問も歓迎する。次会ったときに渡してくれ」
その時、ガチャリと扉が開いて、濃い服を着たいかついおっさん達が入ってきた。
おれはおとなしくそいつらと一緒に外に出た。扉を閉めながら振り向くと、女は静かに笑って手を振っていた。