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悪魔の子供たち 終

 9 共食い

「信用と、情報力?」
「ええ」
 竜胆氏は頷いた。
「あの子は大人顔負けの類まれな情報力の持ち主です」
 これはあの「悪魔の子」についての話だ。
「実際にあの子の告解を聞いていてそれに気が付いたんですよ。あの子が誰かを不幸な目に遭わせようとする時、その持ち前の情報力をいかんなく発揮していると」
 何故か竜胆氏はこれを嬉しそうに言うのだ。私は悪魔の所業を糾弾こそすれ容認する姿勢など持ちたくないというのに。
「ああ、失礼。情報力というのは私の造語です」
 説明が必要ですよねと苦笑した。私が訝っていたのはそこではないのだが。
「あの子が人並み外れて長けていたのは、人間の感情を悪魔の如く自在に操ることともう一つ、ものの見え方を操ること、つまりは印象操作の能力です。この二つの恐るべき悪魔の能力を可能にしているのが情報力、情報を駆使する力のことです」
「情報を駆使する?」
「ええ。例えば、そうですね。あの子の告解の中にこんな話がありました。あの子が意図的に一人の少女を自殺未遂に追いやった時の話です」
 私は思わず耳を覆いたくなった。
 たしかにそんなことが昔あった。あれはあの子がしでかしたことだったのか。
「あの子は実に巧みに印象操作を行い、少女の感情を都合の良い方向へとコントロールしました。それらは全て情報の力に支えられた悲劇だったということです」
 そして彼は事件の全容を語り始めた。
「まず悪魔がやることは、餌食として決めたそのターゲットの情報を詳細に知ること。本人の性格、ステータス、そしてクラス内での立ち位置。そんな基本情報から固める必要があったわけです。あの子の目から見たその少女は生意気で意地っ張りで協調性が皆無だった。友達も一人もおらずみんな彼女を避けていた。それはその少女が何かと人に激しく当たるきらいがあったからです。しかしそれは他者に対し無関心ではないという証拠でもあるので、本当は寂しがっている面もあるのだということをあの子は知っていました。この時点でいかにあの子が情報を収集する能力と精査する能力に長けていたのかが窺えるというものでしょう」
 まさに大人顔負けである。しかもあの子は能動的にそれらの情報を収集していたわけではないのだろう。人間観察力、そして洞察力、さらにその目で見たものから目には見えない部分を補完する想像力、それらがどれも人間離れしているのだ。
「少女の荒れた性格の起因するところは家庭環境にありました」
 竜胆氏の解説は続いた。
「彼女の父親はどこかの会社の社長だったから家は金持ちで、物欲に関しては文句なく満たされているようでした。ただ人間は満足するたびに次の不満を見つけ出してしまう生き物ですからね。金持ちだからこそ他の部分で大いに不満を抱えていることをあの子は見通していたのです。他にはない彼女独特の不満。これは使えるとあの子は考えた。そこでその少女とお近づきになろうとしたのです。彼女も本当は本心を話し合える友人がほしいのではという読みもありました。ただ彼女の刺々しい性格がそれを許さないので、お近づきはコッソリやるのがいいとあの子は踏んだ。スマホの持ち込みは禁止されていたため、秘密の文通で彼女の心を揺すってやろうとあの子は考えたのです。もちろん筆跡を残さないためにも手書きではなく活字の手紙でね。ためしに少女の下駄箱に手紙を入れ、六年生の児童であることを装い、君の下駄箱を通してこれから文通しようというメッセージを送ったところ、彼女はあっさりと了承したようです。飢えていたんですね。そういうことをし合える存在に。そして彼女の心情を吐露した手紙を読む度に必要な情報が出そろっていくことをあの子は実感していった。彼女を不幸に陥れる算段。情報の持つ力はそれを容易に構築してくれる。彼女の父親はどうやら不倫しているらしく、彼女としては大好きな母親が家を出て行ってしまうのではないかと不安でいっぱいになっているという。父親のことは嫌いであるとハッキリ述べてもいた。父親の方も彼女を特に愛していないようだった。これだけ情報が出そろえば、後は彼女のその破裂しそうな不安をちょっと嘘の針で突いてやるだけだった」
「嘘の針?」
「情報力の賜物ですよ。あの子が文通で収集した情報から、少女にとっては母親だけが心の拠りどころであることが確信できた。だったらそこに的確な嘘を混ぜ込めば心は簡単に崩壊する」
 ゾッとした。
 今まさに恐ろしい告解を聞いているような気がしてきたのだ。
「あの子の嘘を少女は疑わなかった。君の母親が他の男と親密にしていたとか。その男には君と同い年の連れ子がいて、その子と君の母親はすでに良好な関係を築けているとか。母親はすでに家を出る準備ができているとか。当然君には内緒にするはずなので、母親にこのことを問い質しても本当のことなど言わないはずだとか。はぐらかされるだけだとか。あの子はあの当時、教室の隅の方で少女が四六時中頭を抱えているのを見るのが本当に好きだったようですよ。それが見たくてやっていたことらしいのです」
「そう……」
 私は言葉にならなかった。
「やがて彼女は校舎の窓から飛び降りようとして止められるという騒ぎを起こした。当然手紙の存在もその時に露呈したのですが、誰がやったのかという点まで調査されるに至らなかった。調査されないであろうことをあの子は知っていたようです。それが学校というものなのだと知っていたのですね。たとえその時の少女の自殺が成功していたとしても、それが直接突き落としたり刺し殺したりするような内容の事件でもない限り、加害者側も子供である可能性を考慮して犯人探しはやらないケースが多い。特にその時は警察も介入し得ない単なる未遂だったわけで、あの子が裁かれることなどまずあり得なかった」
 うんざりするほど計算高い。そんなところがまさに悪魔なのだ。
「それと、もう一つ」
 竜胆氏の微笑がわずかに薄らいだ。
「あの子は少女を追い込むのに情報力と同じくらい重要な条件を手に入れていたのです。それが何だか分かりますか? 相手に何かを信じ込ませるためには無くてはならない条件が……」
「信用、ですか?」
 私は即座に答えた。憎しみを持ってそれを口にした。
「その通りです。少女からの厚い信用なくば、この嘘は成立しなかったでしょう」
 嘘を成立させる為の信用。語るに落ちている。
「信者と教祖の間柄くらいに絶大で無考えな信用が二人の間にはあったようなのです。少女には他に友達がいなかったことと、家庭においても信用できる人間がいなかったことがその要因だったのでしょう。手紙を通して心の中を全てさらけ出している相手にそれを求めても不思議は無かったということです。あの子の獲得した信用は、あの子のやりたいことをやるにあたって常に有効に機能しました。これはあなたも御存知とは思いますが、あの子がクラス内で聖人扱いされているという点がまさに信用そのものなのです。教師からも児童からも疑われない存在。信用が約束されている存在。謀略を計る時にこれほど利用できる印象は無いのです」
 誰からも聖人扱いされている人間。
 その聖人こそが最も嘘を成立させやすい人材であるということなのだろう。
 信用と情報力。悪魔の魔力を支える禍々しき力。
 私がここにはいない「悪魔の子」に恐れを抱いている隙に、竜胆氏はもう一つ悪魔の能力の凄まじさを物語る事例を挙げた。
「あの子はよく人間というものを理解していました。人間よりもずっと人間を理解できていた。人間は決して真実を見ないということもあの子は知っていた」
「どういうことですか?」
「己の感情と、それに基づいて出来た印象でしか世界を見ない。それでしか判断しない。その自分勝手な目で見たものが真実となってしまう」
「だからこそ、他者の感情をコントロールすることと印象操作により人心を操ってきたのですね」
「そういうことです。あの子はかつて非常に熱心な三人の教育実習生を学校から追い出したことがあったそうです。その時のことなのですが……」
 私はそれを聞いて、少しだけ思い出した。そういえば実習生がみんなやめてしまったということがあったような――。
 突如、それが全てあの「悪魔の子」のせいだという事実に震撼してしまった。
「あの子が得意としたのは、別段大したことのないことでも印象操作で大事にしてそれを事件化するという手口でした」
 これを聞いただけでも、確かにあの子は人間を知りすぎていると感じた。
「言い換えるのなら、問題の無いことを問題化して事態を深刻化する手口、ということになりますね」
「……」
「その教育実習生らはとても真面目で誠実な方々でした。そして教育大生の必修科目だからという惰性などではなく、彼らはみな教育者として信念と情熱を持って実習に臨んでいたようです。今の時代には珍しい熱意を持った人材だったわけですね。だからこそ教育の現場には絶対に必要な人材でもあったはずです。彼らは児童のゴキゲン伺いなどせず、間違っていることは間違っているとハッキリ言い聞かせることができる人達でした。それで自分が嫌われることを恐れていなかったのです。この能力は教師にとっての必要条件でもあるし、現役の教師でさえそれが出来ていない例がある中で新米の彼らは実に立派だったと思います。彼らは贔屓もしなかった。だから児童らは分け隔てなく彼らに注意されたり指導されたりしていた。あの子はそれを利用したのです」
「……」
「当時あの子のクラスにはモンスターペアレンツの子が何人かいたようです。何をするにも傍迷惑でしかないその子たちの毒親にも、あの子からすればある長所があったようなのです。それは固形燃料みたいに火点きが良いということ。感情的で行動的という人間よりも動物に近い傾向があるという点です。あの子はこの習性を実習生の追い出しに利用したのです。それともう一つ、若い連中の粗探しばかりする年配の女教師のその悪癖も計画に組み込みました。その女教師は学年主任をしていたようです。彼女にとって若い人とは基本信用できない存在であるらしいのです。さらには子供達に対しても似たような感情を抱いているといいます。その理由なき敵愾心はちょっと問題ですよね。ああいうタイプの人間は昔の、自分たちの生きた古い時代の「正しさ」を宗教みたいに信じちゃってますからね。その信仰の延長で新しい時代の人間はみな正しくないという結論に至るらしいのです。そんな捻じ曲がった考えを持っているお年寄りは結構いるんですよ。老害ってやつですかね。ただこの偏見というのは意外と御しやすくてですね、ある一定のベクトルに関することは嘘でも信じこんでしまう傾向があるんです。自己洗脳にかかりやすいということですね。あの子はこの二種類のモンスターを印象操作にかけて、言うなれば「良い先生」である三人の実習生を追い出してやろうと考えたのです」
「……」
「実習生三人の児童に対する些細なお小言や注意を、あの子は逐一誇張して各モンスターに告げ口したのです。さも聖者の顔をして、子供達を助けてあげてくださいと言わんばかりにね」
 信用とやらが成せる業というわけか。
「事前にあの子はどの親にどんな風に報告すれば彼らが着火するのかを把握していた。そしてその子供の人選も正確にやっておいた。被害妄想が強く反省の色が無い馬鹿な子がいいと言っておりました。親にこういうことをされたのかと訊かれて、事実そうでなくてもハイそうですと答えてしまう愚かな子が望ましかったようです。案の定、モンペ軍団は異端審問官の顔をして学校になだれ込み、罪無き魔女三人を糾弾した。蒙昧な学年主任も折よくこれに参戦し、検事となって彼らを追及することで事態はさらに紛糾した。実習生も実習生で、子供らに説教したことは事実であるから、モンスター共の指摘を肯定せざるを得なかった。そもそも否定できる程彼らの立場は強くなかった。これを聞いただけでもあの子があらゆる情報を駆使して立ち回っているのがよく分かるでしょう」
 なるほど。情報力の成せる業ということか。
「結果、彼らは三人とも実習を修了できずに学校を去っていきました。これは前代未聞の大事件となったようですね。教育実習生を一人も通さなかったことなんてかつて無かった。本来ならば優れた人材であるはずの彼らは、不適合者の烙印を押されて学校を後にしたのです。あの子がただ適切な各人物に対し事実を少々大げさにして伝えた。それだけで真実は逆転してしまったのです。実習生三人の真実の姿を知らない親たちが、偏見でしか人を見れない盲目の老人が、ひねくれた児童が、三人の単なるお小言を問題化し、深刻化し、正義を悪に変えて追い払ってしまった。その者たちが三人に抱いた間違いだらけの印象の方が実体よりも大きな真実となって対応を激化させた」
「情報力を元にした印象操作……」
 事件の問題化、深刻化。事件など初めから無いというのに。
「そう、情報力。火点きの良い親は誰なのか、もっと言うと誰に何を話せば事態をうまく転がすことができるのか……」
 ここにきてようやく情報力の価値が理解できるようになってきた。
「自分がこう動けば相手はこう出る、周囲はこういう反応を示す。そういう未来を想像する力ももちろん必要なのですが、その未来予測を可能にする地盤みたいなものこそが情報力なのです。むしろ必要な情報が出そろっていないと他者の正確な未来予測なんてできません。反対に十分な情報が頭の中に入っていれば可笑しいくらい簡単に他者の未来は動かすことができます。そしてその情報の力で未来を操作しようとする際に、周りの人間から聖者の如く信用されていることが利いてくるのです。偶然を装ったり、不可抗力を装ったりするのにも万事の詳細な情報と周囲からの信用は絶対に必要ですから」
「先生は……」
「はい?」
「先生は、先程からどこか嬉しそうですね。私は、正直話を聞いていて怖くなりました」
 すると竜胆氏は悪事がバレた少年のような照れ笑いで頭を撫でた。
「正直言うと、私は少し賞賛しているんですよ」
 申し訳なさそうに竜胆氏が言った。またどこか私の顔色を窺うように。
「賞賛? あの子をですか?」
「ええ。能力という点ではもはや子供のそれではありません。使いどころが間違っていたというだけで、あれを自分の為に役立ててしまえば何にだってなれますよ」
 どこか楽観的な聖人の声だった。
「印象操作ができるということ、そして他人の感情を簡単に読み取ることができるということ。これらを利用すれば、自分が悪魔であるということも隠しおおせてしまうのです。それも実に巧妙にね。聖者でも天使でもない、無能な人間を装うことだってお手の物です。私だったら下手に聖者を気取るよりもそっちを選びますね。他者から無害と思われる最たるものは聖者でも天使でもない。それは確実に無能な人間ですからね」
「無害だと思われること……」
 私は知らずにその部分を反芻していた。
 そこが最も悪魔的だと思ったのかもしれない。
「巧緻な悪魔こそ安全と無難を好みます。悪魔であることを誰にも知られることなく、それでいて自由に動ける日常を夢見ているのです。その理想の環境を実現するために、それが可能となる自分の印象を、偽りのそれを構築しておくのです。そのための完璧な脳内計画書を用意し、十分な時間をかけてそのイメージを周囲に刷り込んでおく。そして自分自身、きちんとそれに従って生きるのです。寸分も狂うことなくね」
 それはもはや我慢強いとかのレベルではない気がした。
 完全に自分を、そして他者をコントロールできるということだ。
「完璧に、プロの役者以上に自分が構築した役を演じることができる。普段からの思考も言動も完全にその役のものをトレースする。機械以上に正確に、かつ無感情にそれを実践できる」
 聞くだに人間から離れていっているように感じてしまう。
「それにしても、どうしてそこまでする必要があるのですか?」
 私は普通の人間には分からないその理由を訊ねた。
「無論、悪魔だとバレないためですよ。あの子が言うには、自分たちの正体など油断するとすぐに露見してしまうものだそうです。それだけ思考も言動も異端だということです。普通の基準から大きく外れすぎている。だからちょっとでもその異端が顔を出してしまえば、普通の基準とやらを持った普通の人々にそれと知られてしまう。部分的に隠すのではなく完全になりきってしまわないと隠し切れない。あの子はそう言っておりました」
 その結果こうして家族すら騙されてしまったわけだ。つまりあの子のその言い分はすでに立証されていることになる。
「彼らは自分たちのことを異端であると自覚している。それと同時に正常な世界で異分子がどういう扱いを受けるのかをよく知っているのです。だから隠し方も上手くなる」
「悪魔であることがバレて、それで排除されることを怖れているということですか?」
「いいえ、そういうわけではありません。その結果自由に動けなくなることを怖れているのですよ」
 なるほど、と思った。
 そっちの考え方の方が悪魔的だと。
「自分を常に動きやすくしておくこと。自由にしておくこと。彼らが無害を演じる理由はそこにあります。動きやすい環境をそうやって整備しておくのです」
「それは、何のために?」
「もちろん、人を不幸に陥れる数々の策略を成功させるためでしょうね」
 言わずもがな、というところか。
「しかしあの子は違いますよ。もうそんなものに興味はありません。あの子は人間になりたがっていますからね」
 竜胆氏は確かにそう言った。私は耳を疑った。
「私がそういう選択肢を与えたんです。人間として生きることは想像以上に面白いとあの子に教え込んだのですよ」
 この聖人の微笑に、私はひるんでしまった。まるで神が人を創造するかのようだと感じたのだ。
「別に人格者になれなんて言ってないですよ。常に自分を高める努力をし、世のため人のために働くのが真っ当な人としての在り方だなんて御高説を、私はあの子に垂れた覚えは一度もありません。そんなのに憧れる悪魔などいないですし、そんなのに憧れる人間もまた少ないはずですよ」
 これはその通りだと思った。更生とか矯正とかいうものは常にそのステレオタイプの人格者像とセットだと思い込んでいた。この人はそれを否定しているのだ。
「むしろ逆ですね。私はあの子に不真面目な人間になれと言ってやったのです。人間、不真面目に生きた方が絶対に楽しいですからね。怠惰で諧謔的で自由気ままであること。そこに人間の幸福の大半が潜んでいることを教え込んだのです」
 カラカラと彼は笑った。
 こんな私でも幸福などそんなものなのだろうな理解できてしまう。これを否定するのはきっと視野狭窄の真面目腐った人間のみなのだろう。
「いつも怠惰で、常に怠慢で、やりたくないことを放棄し続けるマイペースな毎日は誰だって楽しいでしょう。頭も体も弛緩させている状態をリラックスと呼ぶのです。この何事にも性急すぎる現代社会の中でそれが出来ている人は意外なほど少ないのですけどね。これは私の持論でもありどこぞの調査結果にも出ていることなのですが、ダラけて怠けて呆けている人間ほど幸福度は高いものらしいですよ。そりゃ、ダラけている人は幸せに決まってますからね。それに加えて何事にも諧謔的になれるということも実に幸福な生き方なんですよ。何事も冗談で済ませることのできる度量と余裕があるということの裏返しでもありますし、何より何事に対しても面白可笑しな解釈で楽しんでしまおうというその精神は、日常における自分の笑う回数と、人を笑わせる回数を倍増させてくれます。自分が笑うことと人を笑わせること。これを楽しくないと感じる人間など存在しません。必ず人生が楽しくなります。もう一つ大事なこととして、諧謔的なればこそ真剣に考えて思い悩んでしまうということがなくなるのです。あの意味の無い不幸な人間の習性が無くなるのです。意味無いですからね。思い悩むって。トドメにこの愚僧は自由気ままな生き方もまた素晴らしいとあの子に教えました。あの子に教えた自由とは行動範囲の自由さだけを指しているものでなく、心理的な意味合いとしての自由でもあるのです。要するに身も心も自由であること。それは悪魔のみならず誰もが目指している楽園でもあるはずです。私は自由を謳歌する上での重要なポイントとして、一定の束縛がある中での自由の方が心地良いと教えてあげました。野放図な自由など、自由を実感することのない空っぽの自由でしかありません。やはり自由とは一定の不自由の中から生まれるのです。その方が目一杯「自由」を楽しむことができる。あの子も今はそれを実感していることでしょう」
 怠惰で、諧謔的で、自由――。
 それはもう人としての堕落である。
 故に何よりも魅力的なのだろう。
 どうやらあの悪魔は堕落した人間になるべく旅立っていったらしい。悪魔として生きるよりはましかもしれないが。
「あの子はね、賢いですから。望めばどんな人間にだってなれるんです。今はもう不真面目で自堕落な人間になりきっているはずです。そしてそれをあの子が楽しんでいるのなら、そしてその生活の中に自分なりの楽しみ方を見出してしまったのなら、いつか悪魔として生きることよりもそっちを優先するようになる。やはりその方があの子には合ってますよ。あの子の性格に馴染むような人間的幸福を私は与えたつもりです」
 聖人は自信たっぷりにそう言った。
 これこそ、この竜胆直志のやり方なのだろう。
 悪魔を封じる聖なる魔法。
 それぞれの悪魔に適したそれぞれの人間的幸福。竜胆氏はそれを見出し、人に化けることが得意な悪魔にそれを実践させるのだ。
 見事だと思うと同時に、懐疑的な私も確かにいた。
「本当に……それで大丈夫なのでしょうか」
 ずっとここに置いておいた方が良いのではないか、などと無責任なことすら夢想してしまうほどに私はあの子を怖れているのだ。
 そんな私の心理を見抜いたのか、心なしか竜胆氏の視線が鋭利になった。
「大丈夫ですよ。欠伸の多い堕落した生活の方があの子の性に合ってます。あの子はきっとそういう自分とそういう生き方を好きになるはずです。それが三年間寝食を共にした私の結論です。大体ね、あんな素晴らしい能力を秘めた子供をここに閉じ込めておくなんて、私にはもったいなくてできませんよ」
「もったいない?」
「あの子はとぼけた顔をしながらその実神の視点のごとく、誰よりも早く、そして誰よりも正確に目の前に巻き起こっている物事の真相を看破しています。そのような能力を持っているということは、裏を返せば他の悪魔は手出しできないということです」
「あ……」
「確実に気付きますからね。過去の自分と同じようなことをしようとしている悪魔の存在に」
 あの悪魔の周囲にだけは他の悪魔は入って来れないということか。
「魔除けになるのです。「悪魔の子」は」
「いや、しかし悪魔が悪魔を追い払おうとしますか? 私はむしろ結託するのではないかと心配になります」
 すると竜胆氏は意味あり気な微笑を浮かべて首をゆるゆると横に振った。
「彼らに共存精神などありません。必ず食い合いになります。そうなると強い方が勝ちます。そして、あの子は最強の悪魔です」
 勇気づけるかのように力強くそれを言い聞かせてくる竜胆氏。
 これを聞いて私は安心などしない。
 ただただ、ゾッとするだけ。
 この人があの子を野に放ったのは、まさか――。

   終章 「狩る」

 斜陽の差し込む放課後の廊下は希望に満ち溢れている。
 夕暮れ時こそが一日で最も美しい時間だ。学校や会社に一日中拘束されている我々が解放される時間。自由を与えられる時間。
 どうしてみんなこの素敵な時間を退廃や停滞の象徴のように考えてしまうのだろう。きっとこれから夜になることを想像するからいちいち気が滅入ってしまうのだ。
 もったいない。
 廊下が輝いて見える。
 新聞部を覗いてみると、案の定私の大好きな桜井葉流がいた。
 明日何かやらかすつもりのようで、その準備に大忙しのようだった。私たちは気紛れに友情を誓い合って別れた。気紛れではなく、本当に彼女と最高の友情を認め合えたらどれほど嬉しいだろうか。
 一度体育館に顔を出して、制服に着替えてから私はまた校舎の方に戻った。校内をまんべんなく照らし出している夕陽が私を引き寄せたのだ。すぐに帰ってしまうにはもったいない。
 薄らいだ光が窓ガラスを突き抜け乱反射している黄金色の廊下で、私はふと気配を感じて立ち止まった。私の教室の前だ。
 教室の中に誰かいる。
 ポケットに手を突っ込んで立っている。窓の向こうを見ていたようだが、すぐに私の存在に気付いてこちらの方に体を向けてきた。
「あれ、萩原さん」
「白石君?」
 いつもの眠たそうな顔が、いつものようにめんどくさそうに笑いかけてきた。
 こんな時間まで何をしているのだろう。桜井さんがやろうとしていることの事前準備か何かなのだろうか。
「ここで何をしているの?」
 私はただ疑問に思ったことを口にした。
「え? ああ、そりゃ萩原さんを待ってたんだけど、ここで待ってたって萩原さんは来ないかもしれないなって、ついさっき気が付いたんだ。ま、来たからいいけど。あははは」
 何をやるにしてもあまり深く考えてはいないようだ。
「まさか、私に新聞部の悪事に加担しろって言うんじゃないでしょうね」
 私は冗談めかしてそう言った。
「ああ、全然そんなんじゃないです」
 彼はおどけるように手を振った。
「ええ? じゃあ何? ビリケツ同士で勉強会?」
 私もおどけるように返した。
「いやいや、ただちょっと釘を刺しに来ただけでして……」
 申し訳なさそうに、照れ臭そうに彼はまた自分の頭を撫でた。
「え? 私、なんかした?」
「うん。多分、次はハルを狙ってるんだよね?」
 ダルそうな男から、咄嗟には理解できない質問が飛んできた。
 指の先だけがビクリと反応した。
「一応、それはやめた方がいいかなと」
 まだ申し訳なさそうに、その理解不能の要求を私に申し入れてくるこの男。
 だが、理解できないのはほんの数秒で、充分に間が空いた後ではハッキリとその要求の内容を理解できてしまう。
 どうしよう、理解できてしまう。
「ハルに近づいたのは親しくなって信用を得るのと、アイツの周辺の情報を集めて罠を張る準備をするのがその目的でしょ? 常套手段っちゃ常套手段なんだけど、さすがにこの短期間に同じ手口を乱発し過ぎだよ」
 ああ、この言い分も理解できてしまう。
 どうしよう。
「情報収集と信用獲得。それができたら、聖女の顔して引っ掻き回す。定石だね」
 甘い甘いと、私を小バカにしてくるようなその不真面目な表情。
「きっとこういうことでしょ。いじめ事件では高屋美樹と木田涼子のような間柄の人間がうまく利用できそうだった。周りからいじめに見えなくもないあの戯れが絶妙に使い勝手がよさそうだった。それと、いじられる側の母親が激しやすい人物であることも把握していた。この情報が在るのと無いのとでは全然算段が違ってくるからね。正義面して告発する役目の自分は、告発しても遜色のない活動的なキャラであることがとっくに知られているということも重要だ。告発しても不自然にはならないというキャラメイクに君はすでに成功していたんだ。それこそ君が苦心して築き上げた信用ってやつだからね。そこまで出来ているのであれば後は機会を窺うだけ。さあどうやって印象操作しよう。戯れの中で怪我でもしてくれればわかりやすい。んで、様子見てたらホントに戯れの延長で怪我してくれた。よっしゃラッキーってなもんでしょ」
「……」
「虐待事件はもっと巧妙だったね。仕掛けが複雑なほど楽しくなっちゃうのはわかるけど」
 ほどほどにしなさいよと、今なお不真面目な表情で私に語りかけてくる理解不能のこの男。
「萩原さんのたゆまぬ情報収集が吉田すみれとその母を次の標的として選出したんだ。勉強一筋であり、厳しすぎるほど厳しい母親がいるというある女子生徒の存在を君は知ってしまった。しかもその母親がPTA会長というポジションだったのだから再考の余地など無い。無害な級友の顔をしてターゲットに近づき、時間をかけて彼女と仲良くなる。定期考査までにうまく信用を勝ち得ることができたのなら半分は成功だ。結果が思わしくなかった場合、彼女の母親はきっと激怒するのだろう。それがどのくらいの激怒なのかも君は事前調査で把握していたはずだ。きっと事件化したら問題になるくらいの激高を見せてくれるはずと予想していた。だから萩原さんとしては何としてもその現場に居合わせたかった。それさえ出来れば後は全て君の支配下だ。突き飛ばされたフリでもなんでもいいので自分が被害者になればいい。萩原家で何があったのか、怪我をしていることで確実にその事情を自分の母親から訊かれるというイベントを引き出すことができるからね。吉田家には恒常的に虐待があったかのように虚実交えて母親に説明し、自分の怪我を理由にこれを事件化してもらえばいい。アレは教育の一環であり、本人たちの間には了解があったなどと吉田家側が主張しても、萩原さんという目撃者兼被害者が存在している以上、もはやそんなものは通用しなくなる。吉田家以外には虐待にしか見えないその教育の実態を、君が吉田家に介入しうまく立ち回ることで、吉田家以外の人間にも見えるような位置に持っていってしまったんだ。当然それを裁くのは吉田家以外の人間なのだから結末など目に見えている。君が巧妙だったのは、怪我をさせられた経緯を母親に説明する際に事実よりも大げさに言ってしまったことだ。大げさに言ったんだろ? 印象操作は自分の母親に対しても抜かりなくやるはずさ。それもきっと君にしかできない絶妙なやつに違いないんだ。それだけで君は教育ママのちょっとした激高を許されざる虐待にまで持っていってしまった。もちろん、学校側が封殺しようとしていた吉田ママの暴走劇を外部に漏らしたのも君なんだろうな。一から十まで全部見てきた君なら情報を与えることも隠すことも、バレない程度に部分的に味付けして流出させることも可能だろうからね。ありとあらゆる局面に君の印象操作の手が加わっているのだろう。君こそまさに俺のよく知る悪魔の一人だよ」
「……」
「パワハラ事件では、山尾先生特有の「おっかない」印象が利用できそうだった。特に説教時の叱り方。なんでもかんでもハラスメントになる昨今、あれを問題にしようと思えば簡単に問題に出来るかもしれないからだ。これでターゲットは決まりだ。騒がしいだけの不真面目な男子の入部が絶好の転機。彼に対する一度目の叱責の時、それを反省していない彼の態度を見て確信したんだろうね。これは二度目三度目も絶対にあるなって。何度もあるのなら、もっと悲惨な結末につながるような手順に変えることもできる。ここで知恵を見せるのが悪魔の見せ所だね。より効果的に人々を絶望に追い込むためには、動画を撮る前に一度山尾先生の高圧的な態度は問題であると学校側に訴え出ておくこと。これはお見事でした。俺が校長だったら苦虫だけじゃなく自分の舌まで噛み潰してるかも。事前通告しておけば事件後、学校側は言い逃れできる道を失っちゃうからね。でもこれの目的はその先にあって、学校を巻き込んでしまった形の加害者側と被害者側はどういう心境に至るのかというと、学校にも迷惑をかけたという余計な十字架を背負わされてしまうということだ。これが何より加害者側の絶望を深めてくれる。あとは動画が学校より外に出ないような配慮の仕掛けをすること。本格的な調査が行われてしまうと、撮影者が割り出されてしまうことがあるかもしれないからね。そこはちゃんと線引きして慎重になっているのは冷静な判断だったね」
「……」
 どうしよう。
 窓の向こうで、もうすぐ夕陽が大地の中に沈んでしまうのが見える。この教室からも光が徐々に失われていくのがわかる。
「……とまあ、色々あったけど、なかなかうまく立ち回った方だよ。お疲れさまでした」
 薄れた陽の光の中で、彼が場違いなほどコミカルな仕草で動いているのが見える。
「でもハルは手強いよ。あいつ、人の違和感とか不自然さに敏感なんだ。本人ですら気付かないそれをすぐに見抜いてしまう。あいつは誰よりも悪魔の素質があるよ。俺や君なんかよりもよっぽど危険な奴だ。でも、それなのに悪魔ではなく別のものになろうとしている。悪魔にはならないし、かといって聖女にもならない。ましてや俺の知っている人間とも違う。俺の知らない選択肢を、いつかあいつが示してくれる気がするよ。俺はこの先何になるのか。あいつを見ていると俺の知らない可能性がまだ在りそうな気がするんだ。それだけでこんな世の中に付き合う価値が生まれてくるってもんだ。たとえその先に待つのが破滅であっても――」
 逆光の、絶妙な角度が生む眩しさが、偶然にも彼のこの時の表情を覆い隠してしまった。ちょうど私が見たくないと思っていたそれを。
「萩原さん」
 角度が変わり、いつもと同じ自然体の彼の目がそこに復活するのに一秒もかからなかった。
「あいつが君と仲良くしようとしていたのは、萩原さんの裏の顔にあいつが気付きかけているからだ。さっき新聞部の部室を訪ねてきただろ。自分が引き起こした三つの事件をコソコソと嗅ぎ回って何かしでかそうとしているうちらの動向が気になって、焦燥に駆られてチェックしにきたんだろうけど、まだまだ未熟だったね。君はその焦燥を隠しきれていなかったんだ。あのハルっていう怪人はそのちょっとの漏れも見逃さないんだ。そしてそのちょっとした不自然さから人を疑おうとする。こいつは何か隠し事をしている。きっと裏の顔があるってね。そして肝心なのが、あいつが萩原さんの正体に気付きかけていることに萩原さんが気付いていないということ。萩原さんはハルを標的にしようとしているみたいだけど、とっくに狩人と獲物の立場は逆になっていたのさ。それなのに自分は罠を張ったような気であいつに近づこうとしている」
 ゴクリと、自分の喉の奥から音がした。
 自分が唾を飲み込んだことに、その音を聞くまで気が付かなかった。
「萩原さんがまた同じ手段で同じことをしようものなら、多分ハルは気付いてしまうんじゃないかな。だからその前に会いに来たんだ。ハルが君の正体に気付いて、追い払ってしまったら面白くない。だって、それは俺がやりたかったことなんだから」
 気軽な口調で彼はそう言う。
 彼が私を追い払うのだという。
 一体、一体どこに……。
 この夕陽の先に待つ、闇の中に……。
 私はどうにか口を動かした。
 少し呼吸をしてから動かした。
「白沢君、悪いけど、何の事だかさっぱりだわ」
「ははは。下手くそな微笑でそう言われてもね」
 からかい半分に強がりを看破してきた彼は、光の無くなった教室に興味が失せたかのように、ふらりと動き出し出口へと歩み出した。そして教室を出て行く前、わずかに振り返りこう言った。
「証拠も無いし告発もしないけど、真実を知っている人間が一人でもいる。そのことを萩原さんが知ってしまっていることで、きっと、この先ずっと苦しむことになる」
「何よ、それ」
 なんという――。
 残酷さ。
 ただただ残酷だと思った。
 これが残酷というものか。
「そっと、ずっと君を蝕み続ける。俺はそういう苦しみを生み出したかった。だからこうして告げに来た。君に苦しんでほしかった。聖女ではなく、悪魔の萩原瞳に」
「何よ、それ……」
 彼は笑っていた。
「これが普通の人が相手だったら真相を告げることで反省してもらって、後悔してもらって、苦悩してもらって終わり。でも萩原さんのようなやつに同じ追い込みをかけたって、きっとノーダメージなんだよね。反省も後悔もしないのが悪魔なんだから。そんな悪魔を苦しめるためにはどうすればいいか俺は色々考えたんだ。で、効果的だと思ったのは、お前のやったことを見通している人間がこれからずっと、この世のどこかに確実に存在しているんだぞ……、という恐怖を与えて逃がしてやること」
 やめて。
 やめてよ。
 何てことするのよ。
「知ってるかい?」
 何?
 何を?
「人なんかを食うよりも、悪魔を食う方がずっと美味しいんだ」
 何よ、何よ、その呑気な微笑は。
「だから、新聞部は狩場なのさ。俺が、君のような悪魔を見つけ出すための」
 本当に、心から愉しそうなその微笑――。
 ふと、最初私を新聞部のインタビューに誘ったのはこの人だったことを思い出し、腹の底から恐怖が立ち昇ってきた。
 一体私は、
 いつから、
 見られていたの――?
「ああ、もうこんな時間だ」
 そして彼は一言だけ何かを言い、教室を出て行った。
 窓の外、夕陽はすでに途切れていた。
 夜が来る。退廃と停滞の時間がやってくる。
 自由と解放の夕暮れ時はもうやってこない。
 窓の向こう。空の彼方。永遠の闇。
 夕陽を奪われた私は、今、きっと闇の中にいるのだろう。
 動けない。
 まだ動けない。
 取り込まれてしまう。たった今私の中に刻まれた一生の苦しみに。
 取れない。
 これはきっと取れない。絶対に取れない。
 そういう苦しみなのだ。
 そういえば、彼。教室を出て行く時になんて言ったっけ。
 ひどいことを言ったと思った。
 真の残酷さを知った今の私に、あんなことを言うなんて。
 もう二度と聞きたくなかった。
 いつも耳馴れているはずなのに。
 今だけは違った。
 彼だって言い慣れているはずなのに。
 普段のその言葉ではない。
 随分と心のこもった、きっと本当の意味での――。

「サヨナラ」
                                       了

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