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悪魔の子供たち④

 4 保健室の問診

 インタビュー後、少しだけハルとダベっていたら夕日がいつの間にか姿を消そうとしていた。いつもこうだ。落陽は「だるまさんが転んだ」と同じ。少し目を離しただけですっかり位置が変わってしまっている。
 斜陽の廊下をナツと歩いていると、前方から山尾先生が素振りをしながら歩いてくるのが見えた。もちろん、バドミントンのラケットは持っていない。それでも上下左右、縦横無尽にブンブンと腕を振り回している。やけにテンションが高い。
「ご乱心ね」
 ハルがボソッと呟いたこのセリフを本人にも聞かせてあげたい。病院送りにされてしまえばいいのに。
「あーら。新聞部御一行」
 俺たちは強く警戒した。窓から差し込む薄明かりが山尾先生の凶悪な目を照らし出していたからだ。ブンブンと腕を振り回していたのは機嫌が悪かったからのようだ。なんの罪もない空気に対して暴力的なストレスの発散を行っていたのだ。
「先生、感情が顔に出てますよ。それと、先生は気付いてないかもしれませんが、体全体の動きにも」
 ハルがわざわざ先生の目の前で足を止めてこれを言った。
 先生は不機嫌そうな表情そのままに、何故か何も言っていない俺の頬っぺたを鷲掴みにしてむにゅむにゅと揉んだ。
「ええそうね! 全然気付かなかったわ! 腹が立ってんのよ私!」
 かといって俺の頬がストレス吸収素材で出来ているわけではないのだが。
「部活で何かあったんですか?」
 ハルが興味本位で訊いた。
「萩原が遅刻してきたのと!」
 キッとハルを睨みつけた山尾先生。俺もハルも咄嗟に目を伏せた。
「部員にやる気がなかったこと!」
 最後にむぎゅうっと力をこめてから解放してくれた。
「先生の目の前でやる気が無いって。ある意味相当の勇者じゃん」
 俺は頬を撫でながら感想を述べた。賞賛混じりの感想。
「上等よ! 今度あんな態度見せやがったらブチかましてやっからな!」
 明後日の方向に鋭利な視線を飛ばしながら、吐き捨てるかのように先生は言い放った。現時点ですでに声にドスが利いている。おお怖。
「萩原さんって部活の時はどんな子ですか?」
 俺はちょっと気になって訊いてみた。またまた睨まれたのだが、先生は俺の口許に悪戯っぽい笑みを見つけてため息を一つ吐いた。
「あんたたちに捕まりさえしなかったら、ちゃあんと練習に参加する期待の部員よ。ぎゃあぎゃあと騒がしくはあるけど、戦力にもなってるしね」
 どうやら萩原さんは運動のできるタイプらしい。ビリと準ビリの差が広がる。
「それに、あの子は見ての通り、あなたたちを彷彿とさせるような悪ふざけの権化なんだけど……」
 急に言いたいことが見つかったのか、先生は腕を組み、何かを思い出しながら語ってくれた。
「怒る気になれないというかなんというか……」
 先生はクスリと笑った。
「あんたらもそうだけどさ、キャラってズルいわよね。ああいうキャラの人間をいちいちつかまえて説教したところで、こっちがそんなもん無意味だと思ってるんだからやる気失くすだけよね。犬に向かって匂い嗅ぐ癖を直せって説教してる気になるもの」
 ハルがふーんと唸って意地悪な笑みを先生に向けた。
「先生、萩原さんの手の内じゃないですか。完全に行動を封じられてますよ」
「あんたと同じようにでしょ?」
「ご名答」
「まあ、ハルとは違って害のある生徒じゃないからいいんだけど」
 先生はじとっとハルを睨みつけた。
「そうですね。私は百害あって一利もないですから」
 納得するハルを見て「ね、意味ないでしょ?」という視線を俺に送ってくる山尾先生だった。
「先生、吉田さんのことについて何か萩原さんに相談とか受けてませんか?」
 俺がこれを訊くと、間を置かずに山尾先生は大人の顔になりぴしゃりと質問を遮った。
「それに関する取材はダメって言われているでしょ。ネタが無いってのは萩原から聞いてるけど、今回だけは津崎先生に従いなさい」
 それでもお咎めを食らうことを恐れて禁じているだけの津崎先生と、関係者への配慮として取材拒否しているこの山尾先生はきっと全然違うと俺は思った。
「別に記事にする気はサラサラないんです。ナツが吉田さんと仲良いみたいで、彼女のことを気にかけているだけなんです」
 ハルが山尾先生に言い聞かせるように言った。わからずやに対する紳士な振舞いのようにも見えた。
 山尾先生はハルのその横柄な態度には気にも留めず、ハッキリと驚きを表した丸い目で俺を覗きこんできた。「あの吉田さんと?」という驚きなのだろう。世界史の授業で色々なクラスを見知っている山尾先生は吉田さんのこともちょっとは知っているのだろう。
 その後溢れてくる笑みをなんとか押し殺しているかのような、無理に口許を結んだ顔を俺に向けてきた。おそらくこれは感心しているのだろう。
「知った仲なんだ。それなら心配でしょうけど、あんたがどうにかできる問題でもないでしょう」
 今度は先生が言い聞かすように言ってきた。
「それに、吉田さんに関しては事後もずっと、養護教諭の美里(みさと)先生を中心に職員室が連携して注意深く見守る体勢をとってます。だから大丈夫。あんたもまあ引き続き仲良くしてやってちょうだいよ」
 言いながら山尾先生は俺の肩を叩いてきた。
「あんたは裏表がないから。ああいう深く考え込んじゃうタイプにとってはとっつきやすいのかもしれないね」
「裏表がないというのは、つまり知的ではないということですか」
 せっかく先生が褒めて下さったものを即行で台無しにしようとしてくる性悪女、ハル。
「そうね。なんかそうみたいね」
「何こっち見てんすか!」
 先生の返答にかぶせるようにして俺はツッコんだ。
「先生、もう一つ大事な確認を。とっつきやすいというのは、つまりは珍獣扱いと同義ということでよろしいですか?」
 自然体の表情で次々と俺が獲得したはずの褒め言葉を破壊しようとしてくる驚異の女。
「うん。私はそう言ったつもりだったんだけど」
「山尾教諭!」
 何を神妙な顔で答えているのだこの教師は。先生は俺のツッコミに対し「冗談冗談」と笑顔でいさめてきた。どうやら出会った当初の怒れる山尾明日奈はいなくなってしまったらしい。
「ネタが無いなら私が協力しようか?」
 キーキーとうるさいであろう俺を置いといて、山尾先生はハルの方に顔を向けて提案してきた。
「先生が?」
 ハルもびっくりしたらしい。
「実はね、諸君。我が茜灯高校バドミントン部に末恐ろしい優秀な人材が入部したのよ! 私があいつを鍛えたならかなりのところまでいけるわ!」
 いきなりテンションを上げるジャージ姿の女性。拳が固く握りしめられている。力入ってんな、おい。
「ああ、先生はじゃあ、そいつのことを取り上げてくれと」
「そゆこと!」
「先生は男女どちらの部の面倒も見てるんですよね?」
「ええ。他にバドミントン教えられる先生がいないからね。ああ、その優秀な子は二年の男子よ男子。あいつは羽(シャトル)で人体に風穴を開けられる腕してんのよ。米軍が実用化しようとしている不完全なレーザービームなんかよりあいつの方が遥かに上よ」
 興奮する山尾先生を尻目に俺とハルは目を合わせて頷いた。
 ネタが無いから、ではなく面白そう。よしやろうと。
 急遽山尾先生へのインタビューが決定し、私たちは部室へと引き換えした。
 先生の有力男子部員の自慢話が一通り終わると、ハルはインタビューの方針を変えて山尾先生への個人攻撃を開始した。質問事項は萩原さんとほぼ一緒で、しょーもないプロフィール作りのような感じになった。インタビューは毎回、ハルがふざけはじめるとグダグダになってしまうのだ。
 だが山尾先生はむしろノリノリで付き合ってくれた。元々はこういう人なのだ。ただ学校の中の教育者としての「基準」が厳しいだけで、放課後の生徒の悪ノリのようなお遊び、それも人に迷惑がかからないような、ただ自分たちが楽しむ為だけのおふざけのようなものには同じくらいのテンションで付き合ってくれる。山尾明日奈一個人として参加してくれるのだ。
 以下、ハルの至言。生徒の楽しみに付き合うことと、それを台無しにしてはいけないことの大切さをきっとよく分かっているのよ。それはその生徒の為だけではなく自分の為にもなるし、ひいては学校全体の為にもなる。ふざけることの面白さと重要性をちゃんと認識できている「良い先生」なのよ。
真面目と不真面目の使い分け。ちゃんとできている人間はあまり多くない。俺はそう思っていた。
「先生、このままインタビュー続けるとハルにいいように編集されちゃいますよ」
 他愛のない問答が続く中、俺はここぞとばかりに仕返ししようとした。
「あら。私はそっちの方が楽しみだけど」
 山尾先生が心外だとばかりに言ってきた。
「編集作業をしない男が何かを言ってますね」
 嫌がらせをこよなく愛する女から嫌がらせが飛んできた。
「大丈夫。安心して。ナツには何もやらせないから。私はナツを傷付けないから」
 わざわざそんなことを強く言い聞かせてくるハルに腹を立てるほど俺は……、
「うっせえよバーカ! そこまでバカにしてくるやつがバカなんだよ、バーカ! すっごいバーカめが!」
「すっごいバーカですね」
 冷静に一言告げるハル。
 しかも正しすぎる指摘。
 山尾先生は腹を折り、机に突っ伏して爆笑していた。
「ナツ、毎回頑張るけど、報われない男……」
 痙攣気味に言葉を継いでいった山尾先生だった。
「こういう時はね先生! 空想の中でハルを五回殺すんです! 五回とも別々の方法で!」
「うん。ナツは頑張り屋さんだもんね」
 まともに取り合ってくれない山尾教諭。まずはその邪悪な涙を拭け。
結局部員紹介のインタビュー以外の部分は使えそうになかったが、そもそもハルには使う気などなかったのかもしれない。山尾先生もそれを分かった上で付き合ってくれていた節がある。
 校門のところで先生と別れた後、ハルが俺の顔を覗きこんでわざわざこんなことを言ってきた。
「ね? 「良い先生」でしょ?」
 そんなこと言うと、まるで俺がそれを分かっていなかったみたいじゃないか。これでもお前と一緒に一年間山尾先生のクラスにいたっていうのに。
「厳しくて、恐くて、ちょっと美人の「良い先生」な」
 俺は訂正してやった。
「それを「良い先生」と呼んでるのよ、虫」
 あっさりと言い返されてしまった。
 ――そして翌日。
 この日は朝からハルが元気よく不調を訴え続けていた。具合悪いだの、顔が濡れて力が出ないだの、恐らくは寝不足からくる体の不具合がハルを蝕んでいるようだった。
 寝不足は俺も同じだし、完全なる自業自得なので放っておくと、ハルは朝のホームルームの時に貧血で保健室に行きたいと先生に訴え出たのだった。俺はチャンスだと思った。席が後ろだということも利用して、俺が付き添いますと名乗り出た。
 廊下に出ると病人の介添えなどせず、思いっきり伸びをして自由を満喫した。ハルはハルでいつものように一定のリズムで歩行している。
「こういうのって不思議なものね。具合悪いですって名乗り出た瞬間にそうでもなくなっちゃうんだから」
 どう見ても血色の良いハルが楽しげに人間心理を追究する。この健康優良児の目的地が保健室であるという謎。
「俺は逆もあるよ。仮病使って教室出たのに本当に具合悪くなっちゃう」
「ナツの罪悪感がそうさせるのよ」
「聖女か俺は」
「虫よ」
「うっさい」
 オバサンナースとの誉れ高い保健室の美里先生は、俺が揚々と保健室に入っていくと一切の間を置かずに「元気よし。教室に戻っていいわよ」と、こちらを見ずに瞬時に裁定を下してきた。しっしのポーズと共に。
 買い物帰りの少し小柄なオバサンに白衣を着せただけの美里先生は、常連客の俺をいつも教室に追い返し続けてきた。だが今回は違う。俺は後ろから入ってくるハルの入場紹介をした。
「今回は付添いだもんね。今日はこのハルがゲロ吐くくらい気持ち悪いってんで連れてきたんです」
「どうも。下品な比喩表現が嫌いな桜井ハルです」
 イスに座っている美里先生は無愛想な表情のまま、白衣のポケットに手を突っ込みながらハルの方をじいっと見ていた。
「あんたは休んでいきなさい。テストで毎回一番を取ってるような危険人物は授業なんて受けてないで、一分でも多く寝なさい」
 お説教のような、そうでもないような無茶苦茶な意見を言い放ち、美里先生は持っていたペンをノールックで空いているベッドの方へ突き出した。保健室には三台のベッドが据え付けられており、今は一台だけカーテンが閉まっている。先客がいたのだ。だが二台は空いていた。
 先生はハルに寝てろと指示を出した後はこちらに背を向けたままデスクで書き仕事に没頭していた。チャンスと思い残りの一台のベッドにダイブしようとしたらあっさりと阻止された。後ろを向いているはずの美里先生が俺の腕を引っ掴んだのだ。この人は千里眼を体得しているようだ。
 俺は一秒でも長く長居する為に美里先生と会話しようとした。先生の耳元でこう呟いた。
「あれって、また吉田さんですか?」
 すると先生はチラっとこちらの方を見遣り俺の腕を開放した。そして体ごと椅子を俺と向かい合わせの位置まで回転させ、腕と足を組み、考えるポーズを取った。なぜか俺の顔を見てニヤニヤしながら。
 俺の勘だが、今俺の背後では、ベッドに腰掛けたハルがこの様子をさも楽しげに眺めているに違いない。
「こういうのって、子供同士の方がいいのよねえ」
 そう呟いたあと何度か頷き、美里先生は何の前置きもなく立ち上がり、トコトコと歩いて保健室を出て行こうとした。
「ちょっと職員室に行ってくる。ナツ、留守番よろしくね」
 俺たちにそう告げて、美里先生はこの場からいなくなった。
 振り返ると案の定、ハルはベットに腰かけてこちらを見ていた。
 その隣のベッドに動きがあった。カーテンが揺らめき、数センチ裂けたのだ。そこから外側の様子を覗き見る顔があった。
「あなたたち……」
 長髪の前髪ぱっつん。棘のある目つき。間違いなく吉田すみれだった。
 やあどうもどうもと陽気に言いながら、俺は美里先生が座っていたキャスター付きの椅子を引き寄せて、彼女の正面に来るようにして座った。
「白々しい」
 嫌悪感丸出しで白々しいとか言われたら、人は相当傷つくということを吉田嬢は知らないらしい。
「今日具合が悪くなったのはそっち」
 俺はハルを指差した。ハルは病人であることを忘れベッドから垂らした足をブラブラさせている。無表情の完璧スタイル。西洋人形みたいだ。
「大丈夫よ吉田さん。今日は取材じゃなくて純粋なサボリだから。寝不足は保健室で治すという金言をそこの風采の上がらない男に頂いたことがあるので、ためしに伺ったまでなのよ」
 ハルが誇るように言うが、吉田さんは怒りの視線を微笑するハルにぶつけていた。吉田さんも寝てはおらず、ベッドの淵に腰かけていた。
「保健室ってこんなに居心地いいんですね。もっと早く来ればよかった」
 ハルが大の字に寝そべりながら感想意見を述べた。
「黙っとけ、優等生」
 だが吉田さんはそんなハルの様子を睨みつけるように見ていた。
「どうかしましたか?」
 寝そべったまま、害意の無い天使のような微笑みでハルが問い質した。男子がこれをやられると間違いなく間違いが起きるという。
「どうもしないわよ! あんたなんかに!」
 いきなり吉田さんはキレた。
「首席様のあんたがこんなとこ来ないでよ! 澄ました顔して、私をバカにして!」
「ああ、そうですか」
 ハルは澄ました顔で応対していた。
 吉田さんがカーテンを勢いよく開け放った。
「学年一頭の良い人間に私のことを分かってほしくない! とっとと出てってよ!」
 本当に病人かという程に彼女は息も荒く取り乱していた。顔も真っ赤になっている。
「テストの成績のことを言ってるのなら、そういう言い方は正しくないですよ」
 ハルは眠たそうな表情で体を起こした。
「アレは頭が良いとかじゃなくて、ただテストで多く点数が取れる能力があるだけの話。テストの外では何の役にも立たない能力です。塾講師や家庭教師が与えてくれる能力も同じことで、あんなものは頭の良さでもなんでもなく、ましてや人生全般において役に立つ賢さなんかじゃなく、ただただテストで良い点を取る為だけに鍛えられた能力でしかないのです。だから褒め言葉としては、「あなたはテストで良い点が取れる能力が優れていてすごいですね」です。ただしこれを言われた私本人は何一つ嬉しくはないの。そんな限定的な力を誇るほどバカじゃないですからね」
 このハルの講義を、吉田さんは目を血走らせながらそれでも傾聴していた。俺は慣れたものだがこれがお初の吉田さんにとっては青天の霹靂かもしれない。
 そしてすぐに吉田さんの顔に嫌らしい笑みが広がっていった。
「何それ。傲慢ね。私はそんな限定的な勲章でもいいから手にしてみたかったわ。一度でもいいから! あんたなんかにこの気持ちは分からないでしょうけどね!」
 とにかく彼女は噛みついてきた。
「吉田さん、俺なんかよりも数倍頭良いじゃん。テストとかだけじゃなく」
 俺は素直な感想として言ってみた。
「テストだって毎回上位常連でしょ。こんな規格外のドーピング魔女は放っといてさ、それだけでも十分に自慢できる能力じゃん、違う? 俺ってバカ?」
 俺の成績からしたらどっちとも誇るべき頭の良さなのだ。ハルは俺の方に頭を向けて「ドーピングって何ですか」と問い詰めてくる。魔女の方はいいのか。
 吉田さんは驚愕の表情を浮かべ、声を張り上げ言った。
「バカじゃないの!」
 即座にハルがええバカですと追認した。
「上位常連じゃ意味無いの! 最上位じゃないと意味無いのよ! 私が設定していた目標値がそこだったから、それより下じゃ意味無いのよ!」
 彼女の剣幕は口答えを許さなかった。
「私はテストが返ってくると毎回悔しさしかなかったわ! 同時に物凄く焦った! 目標を超えられなかった自分に腹も立った! 自分が憎くて大嫌いだった!」
 本日一番デカい声で俺は怒鳴られてしまった。
 負の感情のオンパレードだと俺は思った。俺なら絶対にそんな自分と向き合いたくはない。
「俺にはよく分からないけど、目標を下げようとかは思わなかったの? 俺だったら絶対楽になる方法を選んじゃうなあ」
 俺がこう言うと、彼女は勝ち誇るような卑屈な笑みを浮かべて見下してくるのだ。
「はっ。私の目標は、私だけで設定した目標じゃないから。自由に上げ下げできないのよ」
 家族からの期待値だと彼女は言った。
「それがイコール私の目標値なの。だから勉強も強迫観念みたいな動機になっちゃってたのよ。何かに迫られて、追われるように必死で、死にもの狂いで勉強した。でもいつの間にかそれが私じゃ抱えきれない程のストレスになってた」
 この人の保健室利用はそのせいか。
「吉田さんはお母さんが許せなくてイライラしているの?」
 ハルがアホかと思うくらい直接的に訊いた。
 そして俺は見た。今期最大の大噴火を。
「お母さんは何も関係ないっ!」
 思わず俺は耳を塞いでいた。
 吉田さんは肩で息をしていた。膨大なエネルギーを消費したようだ。そのくらいの爆発力があったのだ。
シーンとなった保健室、かと思いきやパタパタと動く音。ハルだけはお構いなしだった。
 さっさと立ち上がり、シーツを直してからスタスタと保健室を出て行こうとした。
「ちゃんと本音があるじゃないですか」
 そうい言い置いて廊下に出て行こうとしたので、俺も慌てて後を追った。留守番を任せると言いつけてきた美里先生のことは完全に失念していた。
「どうやら以前と違うようだね。保健室を利用する理由が」
 俺は廊下でハルに追いついてから言った。
 前までは母親からのプレッシャーが原因。だが今は?
「自分でもよく分かっていないくらい混乱してましたけどね」
 そう微笑むハルの裏側に混乱を楽しむような目の輝きを見つけた。
「自分が大嫌いとか言ってたよな」
「ええ。そもそも過度な期待を寄せられたからといって彼女が母親を恨むようなことなどなかったのかもしれません。もっと普通に考えればいいんですよ。納得いかないのは母親の仕打ちではなく、期待に応えられない自分だった」
 イライラの原因は他の誰かではなく自分。以前はそれが理由で保健室に通っていた。
「そういう人ほど他人に発散しちゃうんだよなあ」
 その被害者AとBがここに。
「それでもこれまではあなたとも友好的だったわけじゃないですか。でも今は明らかに人を寄せ付けようとしていない。さっきみたいに近づく者は全員敵扱い。つまり事件の前後で彼女の心境に何か変化があったのですよ」
 相変わらずよく回る頭だ。
「じゃあハルは具体的に何が原因だと思ってんだよ?」
 核心を訊き出してやろうと思った。
「人に会いたくないのよ」
 冗談めかしてでも、疑問形でもなく、ハッキリとそう告げてきた。
「え? だから保健室に?」
 頷くハル。
「もっと言うと、人にどう見られているかを考えるのが嫌なのよ。被害者の自分は今周りの人間からこんな風に見られている……、そんなこと考えるのが死ぬ程嫌なのよ」
 このハルの話なら理解できる。
「きっと、彼女は今こう感じているんじゃないかしら」
 みんな私を問題のある家庭の子だと思っている――。
「それが……」
「それが嫌なのよ。保健室への「逃避」の正体はきっとそれよ」
 これがハルの見解だった。
 いわば吉田さんは何も悪いことをしていないのに周囲から前科者みたいに扱われているかもしれないということ。それが嫌なのだ。
 真実そうでなくても、吉田さん本人がそう思い込んでいるということ。
 ましてや人の嫌がる部分を突きそうな新聞部が相手ならばその警戒心も尋常ではなくなるのだろう。だからこそあの激高だったのか――。
 彼女は今の自分のことを詮索されるのが何よりも嫌だった。だから保健室に「逃避」してきた。虐待してきた母親よりも避けるべきは彼女のことをアレコレと詮索してくる周囲の人間。つまりその環境こそが「逃避」の原因であるとハルは考えているのだ。
 敵の正体がものすごく巨大で、それでいて曖昧になったような気がした。
 結局その日の取材はそれだけだった。
 

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