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双極性障害【自己受容】

自己受容、他者信頼、他者貢献。

ある心理学者によれば、幸せに生きるためにはこの三つが一組が必要だとのことです。

この三つはこの順番に持つことが必要なのかどうかはまだ私の勉強不足で分かりません。

それはさておき、自分はどうか。
信頼している他者はいます。
カウンセラーさん、なんでも打ち明けることができ、それを受けとめてくれる友人。

他者貢献は、ボランティア活動や「和太鼓・仁の会」を運営することなどである程度できているのではないかと思っています。

では、自己受容はどうか。
また、前述の心理学者とは別の人の考えに「あるがまま」という姿勢があります。
いずれも、どんな状態であれ、そのままの自分自身を受け入れ、受けとめることと私は解釈しています。
毎日、毎日、病気の辛さを感じている私。
頭の重さによる苛立ち。
思い込みによる不安感、そして落ち込み。
さらには、それらの遠因の一つとなっていると思われる常に頑張っていなければ気が済まない自分。

こういう自分のことはまだ受け入れることができていません。
頑張ることは良いことかもしれません。

しかし、昨日の投稿にも書いた通り、私の場合はそれが度を超えている。
仕事でも趣味でも一生懸命にやらなくてはならない。
仕事も一切手を抜かない。
ミスをすると、それがたとえ小さなことであっても落ち込む。

遊びも徹底的にやる。
例えば、こんなことがありました。
私は以前、和太鼓を習っていました。
何ヶ所かで習っていましたが、そのうちの一つはとても厳しい先生でした。
80歳を超えたご高齢の先生でしたが、ほんのわずかなリズムの崩れも指摘してくださる、私が打つ太鼓を聴いて、そのときの私の精神状態まで言い当てる。
とてもありがたく、その先生に認められたいと懸命に稽古をしました。
それが、ある時期、その稽古に行くための電車に乗れなくなったのです。
稽古に行こうとすると気持ちが乱れ、頭が重くなり、駅が近づくにつれて足取りが重くなり、結局稽古を休んだことが何度もありました。
「何故、電車に乗れないのか」
自問自答して得た結論は、電車に「乗れない」のではなく「乗らない」のだ、と。
先生に厳しく指導していただくのはありがたいことですが、それがために毎回稽古の帰りには、先生のおっしゃることができない自分を責めていました。
私が電車に乗らなかったのは、そういう思いをしたくなかったから、そういう選択をしたのだと思うのです。
そこまで思い詰めるほど、和太鼓を突き詰めようとしていました。
しかし、それでは何のための趣味だか分かりません。
楽しんでこその趣味だと思うのに、それがむしろ苦しみですらありました。
挙げ句の果て、ちっとも上手くならない自分を許すことができず、和太鼓をやめました。
今は「和太鼓・仁の会」の運営をしているだけで、自分の稽古はしていません。

横道が長くなりましたが、大好きなことが辛さになるほど突き詰めてしまう。
何故、単に和太鼓を楽しむことができないのか。

楽しいはずのことが辛さになってしまうほど突き詰めようとする自分を受け入れることができないのです。