偏愛バトン 往路の4 / 続・みる、とか、みられる、とか
(↑こちらへの返信です)
船便でいただいたお手紙を、さらに船便でお返ししております
柿が、大好きでして
果物のわりには水分量が少ないので味の詰まりと持続がすごいんですよね
口内いっぱいに柿パワーを受け止めて、飲み込んだ後も鼻腔に余韻が残る
生でそれなので
干しちゃったらさらに味が詰まります
単体だと手に負えないパンチなので何かと合わせたり、小さく刻んで少しずつ食べたい
マイさんのお手紙はそんなカキレターでした
受け取りたての時も味の詰まりがすごかったのに
時間を置くとどんどん凝縮してくる
大変だ
何かと合わせないとパンチが強すぎてもう食べられない
クリームチーズ的な何かを!
バニラアイス的な何かを!
ラム酒につけて云々!
なんて探してみたけれど、そんなハイカラなものは見当たらない暮らしで
それが却ってよかったです
何かに混ぜて誤魔化さず、小さく小さく千切りながらゆっくり何度も読みました
お返事ありがとうございます
・
「果たして我々はみることができているのか」
という問いにゲヒャーと毛穴が開いて
(((こ、これ真剣に読んだら立ち直れないかも…)))
という恐怖を感じ、ごめんなさい、一読目は本当にサラリと流しました
図星すぎたからです
(サラリと流したかったのに長く続く味に困惑もしました笑)
地域の子どもをよく「みて」いる大人たち
その子にどんな特性があって、どんなことに向いていそうか
魂がどちらに向かっているのか
それは将来をガチガチに決める圧としての「みる」ではなく
その子の輝きをさらに外に溢れさせるような引力としての「みる」
そういう風に大人にみられていることが、きっとほんのり分かっているから
子ども自身がある程度の年齢になったときの進路の決め方に、何らかの影響があるのかな、ということ
翻って「何に向いているか分からない」と悩む若者の存在
その理由を
と記した一文にズキッとしました
振り返ると、社会の成員であるという意識がとても薄いまま生きてきてしまって、個に集中、個に集約することに感けていたようにおもいます
みてきたか、と問われるとハイ!と元気よく言えないし
みてこなかったからこそ、みられていることにも気づかないままでした
「何に向いているか分からない」はまさにずっと抱いていたテーマで、自分の存在に自信がなくなるシーズンがくると、せっせと強みを見つけるツールを使ったり、カウンセリングを受けたり、各種才能診断、資質診断のようなサービスを一巡りする運動会をほぼ毎年開催していました。
みられてきたこと、みてもらってきたことに気づかずに回し車のネズミであったこと
その回し車から降りるには、自分で「みる」をはじめること
小さく刻んだ15片目くらいの干し柿で、じわじわとこのことが肚に落ちてきて、とんでもない手紙を書く人だな!と恐怖から驚異に変わってきています
同時に思い出した言葉がありました
知っているようで知らない
知らないようで知っている
そんな文通相手
まだ会ったことのないマイさんとのやりとりが、まさにこれだなぁと
赤いワンピースを着ている姿は見たことないけどマイとミイが重なったのでした
・
そして一つお知らせがあります
前回の私のお手紙の中に書いた、ググっても出てこないもの
トイレットペーパー代わりに使うふわっふわの葉っぱの名前についてです
ikizeranyenziと書きましたが
スペルを変えてikiziranyenziで検索したらいっぱい出てきました
私が間違っていたようです
あれースペル聞き間違ってたっぽいな
と、教えてくれた人を訪ねに行ったら
i でも e でも変わんないよ〜!
と笑われて、んなわけねぇだろ!と、あぁそういうもんか、が同時にやってくる不思議な対流に巻き込まれました
いやでも検索したら i で出てくるのよ、ほら、見て、これ
と画面を見せる私に、
あぁほんとね、この葉っぱよ、あれ、でもたまに違うのも写ってるわね、紛れちゃうよね、まぁそんなもんよ
と、ごく気楽な態度
i でも e でもどっちでもいい
分かればそれでいいし、伝わればそれでいい
目の前に現物があって、互いに通じ合えばそれでいい
そのスタンスを見たときに、「どっちでもいいって言ってるけどやっぱり i が正しいんだよな」とふんわり画面の方に重きを置いていた自分を見つけギクっとしました
ギクっとしたのにその後また同じことを繰り返します
夏にある島国に行った時のことです
その島には赤道が通っていて、ここが赤道です!というラインが地面に引かれていました
はじめて立つ本物の赤道
わー!そうだろうなとは思ってたけど、本当に赤くないんだー!とこの目で見られたことにテンション上がったのも束の間
おもむろにiphoneを取り出し、ほぼ無意識に方位磁針のアプリを開いていました
それは「ここが本当に赤道なのか画面の中に答えを聞く行為」でした
そしてやっぱりズレていました
距離にして90mくらいの差異です
あ、やっぱりズレてるわ。そりゃ正確に作るのは難しいよね〜100年くらい前の話だし。測量技術とか衛星技術とか今と比べ物にならないだろうし。と、何の疑いもなくアプリを信じて、この自分の足で踏んでいる線を誤りだと決定していました
正しい赤道はあっち
こっちは間違っている赤道
数秒後、えも言われぬざらつきに襲われます
私、ここまできて、何してるんだろ
もちろん先人の技術開発のおかげや、GPSの精度の高まりのおかげで
アプリの方がより正確な情報を示しているかもしれない
そうかもしれないけれど、ここにある、今みているものの答えまで画面の中に求めるようになり、自分の目を疑い、誰かの目に縋る
正しさはいつも自分ではない(もっと詳しい)誰かの中にあるし、ここではない(もっと整理された)どこかにあるものだ
そういう態度で
世界に対する責任を、数多いる専門家さんたちに何となく押しやっては
どんどんと自信をなくしていくスパイラルに自ら飛び込んでいました
みる、をやめればやめるほど
簡単に誰かに人生を明け渡せることを感じました
明け渡したいときは、そうしよう
取り戻したいときは、もっとみよう
・
最後に、魚の目利きの方のおはなしに触れて思い出したことを
数年前、東京の下町にある100年続いた八百屋さんが閉店するとのことで、最後の一ヶ月間を記録に残させてもらったことがありました
ねじり鉢巻に白肌着、酒屋さんの紺色前掛けを締め、タバコを咥えながら軽トラを運転する絵に描いたようなおっちゃんに付いて市場に行ったときのこと
一面に並ぶ野菜にちらちら目を遣るだけで、じっくりはみない
たまにサッと手にとってもぐるりと眺め回したりせず、あっさり手放す
それでもものすごい速さで、これはいい、これはだめ、これは買う、これはいらない、これはまぁ持って帰ってもいいかな、これはあの人にあげよう、と決めていきます
はたからみているとその基準が全く分からず、マイさんと同じことを聞きました
どうやって見分けてるんですか?
「色気だよ」
野暮な私は口をついて「色気って、、、(具体的にはなんなの)」と漏らしてしまうと
「色気は色気だよ!」
そう言って咥えていたタバコをサンダルの裏でゴシゴシと消し、ほら、行くぞ、と軽トラに戻っていきました
途中、お仲間さんと暗号みたいな短い会話を数秒交わして
複合的なあれこれが、彼の場合は「色気」という言葉に集約されていたけれど、何十何百とあるであろう要素の具合をみていた人の一人だったんだな
久しぶりにおっちゃんに思いを馳せられてなんだか嬉しくなりました
鍵を開けてくれてありがとうございます
みればみるほど目ではない部分を使うようになるんだろうなぁとぼんやり想像しつつ
ベランダに出入りする茶色い鳥を見ながら
一往復目
二往復目
三往復目