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「まんじゅうこわい」みたいに自分がいちばん怖いものを挙げあう場面があれば、わたしは「息ができないこと」と答える。

そんなの誰だって怖いと言われそうだが、息ができないことへの恐怖が人一倍ある。子どもの頃、喘息の発作で息がうまく吸えなくなるたび、「このまま死ぬんやろか」「死んだらどうなるんやろか」と怯えた。その恐怖が蘇るのだ。

幼稚園の年上組に上がる前、5歳になるかならないかの頃に市街地から緑豊かなニュータウンに引っ越した。喘息は少しずつマシになったが、息ができない苦しさに想像力が加わり、「死んだらどうなるんやろか」の恐怖が募るようになった。

「死んだらどうしよう」とおののきつつ
「死んだらこの苦しみからは解放される」とも思った。
それくらい、うまく息を吸えないのは辛いことだった。

「いき」は「いきる」に直結している。わたしの場合、とくに。

これまで書いたnoteでも喘息の息苦しさについて触れている。

小さい頃は喘息で、発作になると「このまま死んでしまうんやろか」とおびえた。死ぬというのはどういうことやろか。今目の前の食卓にある醤油差しやお皿は残るけど、わたしはいなくなること。などと考える幼稚園児。絵本を読んでは物語の続きを妄想して現実逃避。  

note「人生はオーディションの連続だ」

自分がいなくなっても食卓の醤油差しは残る。そんなことを考える幼稚園児だった。「死んだらどうなるんやろか」を5歳なりに理解しようとしていた。

わたしは小児喘息を患っていた頃、体を二つ折りにしてゼーゼーと喉を鳴らしながら「死んだらどないなるんやろ」と考えていた。息苦しさは死の恐怖と直結する。いろんな角度から死というものを見つめ、理解しようとした。食卓に並ぶ調味料を眺めて「わたしが死んでも醤油は残る」と思ったり、電車に揺られながら「50年後、この車両にいる何人が残っているんやろ」と考えたりした。

note「運命のテンテキ」に出会ったのも運命なんです運命論

小学校に上がる前から「わたしがしんだら」が頭の片隅にあった。喘息持ちだったので、咳が止まらなくなると、死がすぐ近くに迫ってきた。

「しんだらどうしよう」が「しんだらわたしはどうなるんだろう」になり、「しんだらわたしのなかみはどうなるんだろう」になっていった。

あるとき、「私が死んだら私の頭の中にいるお父様はどうなるのだろう」という自由律の詩(文言少し違ったかも。誰の詩だったのかも思い出せず……)に出会い、同じこと考えてる人がいるんだ、とほっとした。

note「一緒に気持ちとか思い出とか固めてる─てのひらの雪だるま」

「しんだらどうしよう」が
「しんだらわたしはどうなるんだろう」になり、
「しんだらわたしのなかみはどうなるんだろう」になっていく。成長とともに怯える対象が広くなる。

喘息で幼稚園を休みがちだった頃、幼稚園に行っているはずの時間に家にいる宙ぶらりんさを持て余していた。三面鏡の両側の鏡を動かすと、鏡の中に延々と続く鏡が現れる。顔をぐっと近づけて鏡をのぞき込み、この向こう側に迷い込んだらと空想し、戻って来れなかったらどうしようと怖くなった。向こう側の世界の風景や住人たちの姿も、元の世界に戻って来れなったときのパニックも、くっきり思い描いてしまう子だった。

鏡の向こうを夢見た脚本家が観た『かがみの孤城』

恐怖は大きく2つに分けられると思う。「知らないから怖いもの」と「知っているから怖いもの」。

「知らないから怖いもの」は、得体が知れないもの。
よそ者。異形のもの。幽霊、宇宙人、ゾンビ、未知のウイルス。よく知らない国や文化圏の人。何をされるのか、対処できるのか、わからないから怖い。

「知っているから怖いもの」は、痛かったり、辛かったり、ダメージの程度を知っているから怖い。あんな思いを2度としたくない。あるいは、未体験だけど傷つくのがわかっているから避けたい。病気やケガ。事故や災害。今持っているものが奪われたり損なわれたりするのが怖い。

コロナ禍のとき、2種類の恐怖が混ざった。感染したらどうなるんだろう、世の中はどうなっていくんだろう、いつまで続くんだろうという未知への怖さと、感染して呼吸器に症状が出たらあの息苦しさに襲われるのかという怖さ。

死ぬことを恐れるのは、死んだらどうなるのかがわからないから。逆に、生きること、生きていくことが怖くなることもある。

7月20日に放送されたFMシアター「アシカを待つあした」(聴き逃し配信は7月27日22:50まで)は、福井県で「命の防波堤」として活動されている茂幸雄さんに取材したことを膨らませて脚本を書いた。

「死にたいという気持ちと生きたいという気持ちは百かゼロかではない」「これまでに声をかけて保護した人たち(取材時822人。収録時828人)で本当に死にたい人は一人としていなかった」というお話が心に残った。

行ったり来たり、気持ちは揺れる。人は揺れる。一人にできることには限りはあるけれど、あちらへ傾きかけた気持ちをこちらへ戻すくらいのことはできるのではないか。きっかけは、ちょっとしたこと。たった一言だったり、たった一人だったり、たった一日だったり。

「アシカを待つあした」の主人公は、会社に行けなくなった社会人一年生。追い詰められて崖の上に立ち、茂さんがモデルのヒデさんに見つけられ、声をかけられる。

落胆の息。呆れた息。過呼吸。安堵の息。脱力の息。深呼吸。ハルの揺れ動く気持ちと共に呼吸が変化していく。呼吸も台詞だ。

息がうまく吸えなかったハルが、息をうまく吸えるようになり、もっとこの世界の空気を吸いたいと願う話ともいえる。ハル役の吉本実憂さんの呼吸の説得力が素晴らしい。


目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。