見出し画像

鏡の向こうを夢見た脚本家が観た『かがみの孤城』

映画『かがみの孤城』が刺さった理由

2022年12月23日に公開された『かがみの孤城』を公開からひと月余り経って、ようやくつかまえた。

監督は原恵一さん。脚本は丸尾みほさん。

学校に行けなくなった中学1年の女の子・こころが鏡の中に吸い込まれて……という辻村深月さんの原作の最初の数十ページを読んで劇場へ。

主人公とは年齢も事情も違うけれど、鏡の向こうの世界には親しみがある。

喘息で幼稚園を休みがちだった頃、幼稚園に行っているはずの時間に家にいる宙ぶらりんさを持て余していた。三面鏡の両側の鏡を動かすと、鏡の中に延々と続く鏡が現れる。顔をぐっと近づけて鏡をのぞき込み、この向こう側に迷い込んだらと空想し、戻って来れなかったらどうしようと怖くなった。向こう側の世界の風景や住人たちの姿も、元の世界に戻って来れなったときのパニックも、くっきり思い描いてしまう子だった。

小学6年のとき、授業中に大学ノートに鉛筆を走らせて書いたのは、鏡の国に迷い込んだ女の子の話だった。細かいことは覚えていない。たぶんノートも残っていない。ただ、鏡の向こうのことを考えるのが人一倍好きな子だった。

そんなわたしが大人になって『かがみの孤城』に出会った。

主人公・こころが吸い込まれた鏡の向こう側は、わたしが子どもの頃に思い描いた鏡の国よりずっと繊細で、気高く、美しかった。絶海に浮かぶ孤城の中での出来事はもちろん、物語を紡ぐピースの一つ一つが丁寧に扱われ、慎重に積み上げられていた。孤城に集められた7人の子どもたちに遠い昔の自分を重ね、8人目になって、かがみの向こうへ引き込まれた。

「トロ子」と呼ばれた頃

主人公のように学校に行けなくなったことはないけれど、学校で「のけもの」にされたことはあった。

中学1年の1学期のある日、ソフトボール部の練習に出たら、変な名前をつけられて、その名前が陰で囁かれていた。キャッチボールの相手を決めるとき、他の子たちが組み上がり、わたしがあぶれた。奇数になるときは3人組を作ればいいのだが、「こっちには来んといて」という困惑オーラがバリアのように張られていた。

何が起こったのかわからなかった。

混乱しつつも平気なフリをした。困ったら負けだと思った。部活を休むのも、辞めるのも。

ずっと忘れていたそのことを『かがみの孤城』を観ている最中に思い出した。

あのときつけられた変な名前は、たしか、「トロ子」だった。と今、このnoteを書きながら思い出した。

俊敏さが求められるソフトボール部になぜか入ってしまったわたしは、足が遅い上に球技のセンスが恐ろしいほどなかった。隣で練習している野球部のボールが後ろから飛んで来たとき、「危ない!」の声を聞いて咄嗟に振り返り、口でボールを受け止め、唇がタラコのように腫れたこともあった。

「トロ子」と呼びたくなる鈍臭さは十分備わっていた。

トロ子と呼ばれ始めたのも突然だったが、呼ばれなくなったのも突然だった。わたしの次の子が変な名前で呼ばれだし、のけものにされた。

キャッチボールの相手を決めるとき、一人にされたその子がうずくまり、ワッと泣き出した。すると、初めて気づいたみたいに「どうしたん?」「大丈夫?」と部員たちが次々と声をかけた。

わたしは意地でも困ったそぶりを見せるもんかと平気なフリをしたけれど、「こんなのイヤ!」と声を上げれば、透明人間に輪郭がつくのかと驚いた。そのときのわたしは、キャッチボールの相手が見つかる身分を取り戻し、次の子が取り残されるのを安全地帯から黙って見ていたのだろう。また目をつけられて、トロ子に逆戻りしたらかなわないと身構えて。

時間がかさぶたになり鎧になる

ダーツの矢で旅先を決める気まぐれさでターゲットが選ばれ、移り変わる。やってる側にとっては軽い遊びだが、やられたほうは深刻に受け止める。何がきっかけでこんなことになったんだろう。何かしでかしてしまったのだろうか。自分の行いを振り返り、思い当たりを探し、傷口を広げる。

そんなことで思い詰めるなんて馬鹿馬鹿しいと思えるのは、大人になって、あの頃をロングショットで見られるようになったからだ。

今なら「トロ子」というネーミングセンスを面白がれるし、これから書く脚本や小説のネタに使ってやろうと思える余裕さえあるが、当時は傷ついた。

いじめと呼ぶほどヘビーではなく、軽くハブられたという感じだったし、期間も短かった。それでもきつかった。家と中学校の往復と、習い事を入れても半径1キロほどの狭い世界。部活で過ごすのが1日のたった数時間だとしても、そこでしくじることのインパクトは大きかった。

もし、部活で起きたことが教室まで追いかけてきていたら。それが長く続いていたら。わたしも学校に行けなくなって、学校からの連絡が家のポストに落ちるかすかな音を聞き、カーテンを薄く開けて同級生の背中を見送っていたかもしれない。

「トロ子」と呼ばれた日々のことを忘れていたのは、傷が浅かったからではなく、時間がかさぶたになったからだ。楽しいこと、うれしいことが積み重なって、傷を覆ってくれたからだ。わたしはソフトボール部をやめなかったし、戦力外の背番号28番のままベンチを守りきった。一時期わたしをトロ子と呼んだ子たちとも普通に話せるようになった。

時間はかさぶたになり、鎧になる。大人になるにつれ、世界の半径は広がり、学校の比重は小さくなり、薄まる。ひとつの輪から締め出されても、それで終わりにはならない。そのことを知っていること、信じられることが、お守りになる。

『かがみの孤城』に出会って、未来に光を見出し、今を生きる力が湧く人もいるだろう。わたしのように、過去から見た未来である今にうなずく人もいるだろう。過去に苦しんだ人ほど、生き抜いて迎えた今を抱きしめたくなるだろう。

時間の飛距離が大きいほど、感情の振幅は大きくなる。物語によって遠くへ運ばれるほど、戻って来た現在地は明るく照らし直され、目の前がひらける。

公開中の『嘘八百 なにわ夢の陣』(足立紳さんと共同脚本。音楽はこちらも富貴晴美さん)はもちろん観て欲しいけど、『かがみの孤城』がたくさんの人に届いて、その人たちの今を肯定してくれることを願わずにはいられない。

一枚に凝縮された物語

観客として物語に引き込まれると同時に、脚本家として「この脚本、よくできている」と感心した。  

見せるものと見せないものの選択と示す順序がことごとく好きで、気持ちが良い。

年末から年始にかけて全6回の講師を務めた脚本創作塾で「一行をひと口、一シーンをひと皿」と喩え、「食べる人の顔を思い浮かべ、フルコース料理を組み立てるようにシーンを組む」ことを伝えたが、そのお手本のような脚本だった。最初のひと口から惹きつけられ、次のひと口、ひと皿に期待が膨らみ、最後のひと口までおいしく、食べた後に余韻が残る。そして、「おいしかったから食べてみて!」とその味を誰かに紹介したくなる。

丸尾みほさんの脚本が月刊シナリオに掲載されているので、辻村深月さんの原作とあわせて読みたい。

入場時に配られる来場者特典のカードは時期によって違うらしく、わたしが受け取ったのは、オオカミさまがテーブルに腰かけてクリスマスケーキを食べているイラストに「ありがとう」と言葉が添えられていた。

丸テーブルの上に腰かけ、いちごのショートケーキを食べる「オオカミさま」。顔にリアルなオオカミの被りもの。裾がフリルになった赤いクラシカルなワンピース。白いレースの靴下と黒いエナメル靴。

映画を観終えてからカードをあらためて見ると、「あの日着ていたドレス」だと気づき、「このショートケーキはあの日のケーキ」だとわかり、その前に交わされた会話が蘇る。さらに、ティーバッグの箱に目が行き、「このフレーバーは、もしかして」と想像し、もう一度答え合わせをしに劇場へ行きたくなる。

一枚の絵に凝縮された物語が、ほどけるように広がる。一枚絵の連続である映画の一枚一枚に緻密さと遊び心が凝らされている。散りばめられたピースが気持ちよくはまっていったのは、そのせいだ。

カードの裏面、左上には「かがみの孤城」の文字。右下には鍵がひとつ。カードを鏡に映すと、「孤城」が「宝物」と読める。見方を変えると「孤」は「宝」になる。鏡文字のメッセージまで心憎い。

第1弾のカードでは「孤城」が鏡に映すと「友情」に。

向田邦子とスタバ

『かがみの孤城』を観た夜に見たのは、孤城に迷い込む夢、ではなかった。

「夢は欲望の充足」なので起きている間に十分考えたことは夢に出て来ない。考え足りなかったことを夢で見て帳尻を合わせるのだと大学の一般教養で取った心理学の講義で学んだ。ところで一般教養を「パンキョー」と呼ぶのは全国区なのだろうか。今もそう呼ぶのだろうか。パン食い競争も略すとパンキョーだ。

話を戻して、夢に現れたのは、向田邦子だった。

《仕事が面白いから結婚はしたくないけど、結婚するなら扶養されたい》という趣旨の向田邦子の随筆を読んでいたら途中から本人のインタビュー映像に切り替わり、《そもそも独身女性に一杯おごるスタバの制度が悪い》という話になった。

独身女性はスタバでおごられる制度があり、それがあるから独身をやめられないのだと向田邦子はサバサバと言うのだった。

そんな制度があるとは知らなかったわたしは早速スタバへ確かめに行くのだが、店員に聞く勇気がないので、貼り紙を探すが、見つける前に夢から覚めて時間切れとなった。タダのコーヒーを飲み損ねたが、そもそもわたしは独身ではないし、向田邦子とスタバは時代が合わない。

夢のことをTwitterでつぶやいたら、『嘘八百 なにわ夢の陣』になぞらえて「スタバ夢の陣」とうまいツッコミが入った。憧れの大先輩脚本家にご出演いただきながら願うのはタダのコーヒー1杯という、なんとも小さすぎる夢の陣。

「向田邦子」と「原惠一」が並んだ日記

向田邦子が夢に現れたのは、わたしが覚えている限り初めてのことだった。目が覚めたその日、別なところで彼女の名前が目に飛び込んだ。

映画『かがみの孤城』の監督、原恵一さんのことを日記に書いたはず……とその日記を探していたときだった。日記内検索をしても引っかからない。「クレヨンしんちゃん」で検索すると、「原恵一」ではなく「原惠一」と表記していた。

わたしの映画脚本デビュー作の『パコダテ人』が上映された2002年の宮崎映画祭で『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』と原監督に出会った。そのことを振り返る16年前の日記に「向田邦子」の名前があった。

さらに『パコダテ人』でヒロイン日野ひかるを演じた宮﨑あおいちゃんは『かがみの孤城』でフリースクールの「きたじま先生」を演じている。

向田邦子と『かがみの孤城』がつながった。

夢に向田邦子が出てきたのは偶然ではなく、映画がきっかけで記憶の底の鍵穴に鍵が差し込まれたのかもしれない。

日記を読み返してみると、原監督が作品に向き合う姿勢にあらためて背筋がのびる。

《面白くするためにみんなで知恵を絞らなくてはならないはずなのに、他のスタッフを納得させるのはどうしたらいいか、という考えになってしまう。その結果どんどん角が削れて平板になる》

《「一人の頭のおかしいやつが突っ走って作った作品が持つ、一種の”いびつさ”」が映画の本当の魅力なんじゃないか》

端正に整えられた物語でありつつ、出っ張った鋭さや残酷さはバランスを取って丸めたりしない。かさぶたの下の遠い昔の記憶が疼いたのは、劇中で主人公に向けられた言葉の刃にえぐられたからだろう。

『かがみの孤城』が刺さった理由がここにもあった。

2007年8月1日の日記「バランスがいいこと バランスを取ること」

最近立て続けに読んでいる向田邦子さんのエッセイの一冊、『夜中の薔薇』に収められた「男性鑑賞法」と題した一編に「らしく、ぶらず」という言葉が出てきた。

落語家の橘家二三蔵さんを紹介する中で、文楽師匠の言葉として登場するのだが、「落語家らしく、落語家ぶらず」ありなさい、ということらしい。

家のつく職業同士ということで、「脚本家らしく、脚本家ぶらず」と置き換えてみると、なかなかしっくりくる。

職人の腕や心意気は感じさせたいけれど、下手なプライドは持たないように気をつけたい。「らしく、ぶらず」の微妙で絶妙なさじ加減が求められる。

さらに、橘家二三蔵さんを「七分の粋と三分の野暮」と表現するくだりがあり、調理師の小田島実氏を取り上げた一編には「自信と謙虚」が同居するさまが描かれていた。

足りないとなめられるけれど、過剰だと鼻につく。何事も押し引きのバランスが肝心だなあと感じる。

ちょうど、少し前に紹介されて会った映像製作会社の方から「バランスのいい人」という第一印象を受けたと言われ、そんな風に見えているのか、とうれしくなった矢先だった。

ところが、今日の読売新聞の夕刊で原惠一監督のインタビューを読んで、はっとなった。

「作り手であるがゆえにかかる病気」というくだりがあり、「面白くするためにみんなで知恵を絞らなくてはならないはずなのに、他のスタッフを納得させるのはどうしたらいいか、という考えになってしまう。その結果どんどん角が削れて平板になる」と語っている。

自分のことを言い当てられたようで、新聞の前で背筋が伸びた。

打ち合わせの席でのわたしは、テーブルを囲んでいるプロデューサーや監督を納得させることに気を取られ過ぎていないか。まず社内を説き伏せ、得意先を説得してはじめて視聴者にメッセージを届けられるという広告会社時代の「丸く納め体質」がしみついていないだろうか。

120度ずつ違う方向を向いて収拾がつかなくなっているスタッフの意見を交通整理して、皆が納得するアイデアを出して喜ばれて、自分もいいことした気になる。でも、バランスを取ることが、作品にとっていいこととは限らない。誰が何と言おうとわたしはこれをやるんだ、こうしたいんだ、と突っぱねるものを持っていないと、作品は熱や勢いを失ってしまう。

鬼から角が取れたら、ただの人間だ。

「一人の頭のおかしいやつが突っ走って作った作品が持つ、一種の”いびつさ”」が映画の本当の魅力なんじゃないか、と語る原監督。まさにそうだと思う。

インタビューを読みながら、2002年の宮崎映画祭でお会いしたときの監督の印象を思い出していた。

『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』をひっさげて参加されていた監督は、『パコダテ人』で映画脚本デビューしたばかりのわたしの話に、じつに楽しそうに興味を持って耳を傾けてくれた。余計な気負いを感じさせず、ただ作品を作るのが好きだというまっすぐな気持ちが響いてきた。自分の作品をしっかり愛し、人の作品にも敬意を払える、「らしく、ぶらず」の監督だった。

バランスのいい人が意見のバランスを取ることより自分の意志を貫いた場合、それは暴走とは受け取られないのかもしれない。そうして生まれた作品には、でこぼこやごつごつが均さずに残され、観た人の心にも引っかかりを残す気がする。

そんなにおいが感じられる原惠一監督最新作の『河童とクゥの夏休み』を観なくては。

この記事が参加している募集

#映画感想文

67,900件

目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。