叶ったり破れたり─さすらい駅わすれもの室「彼の苦いブラウニー」
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男性の「わたし」が失恋するバージョン
2016年2月13日、14日に開かれた音楽と言葉のユニット「音due.(おんでゅ)」の2nd liveに書き下ろした、「さすらい駅わすれもの室」バレンタインデー編「苦いブラウニー」。
こちらは、わすれもの室を守る「わたし」が男性で、「七時二十四分発の列車の女性」に失恋するバージョン。
「わたし」が女性で、探し主と同じ「七時二十四分発の列車の男性」に失恋し、痛み分けのブラウニーを味わう「彼女の苦いブラウニー」とあわせてどうぞ。
今井雅子作 さすらい駅わすれもの室「彼の苦いブラウニー」
さすらい駅の片隅に、ひっそりと佇む、わすれもの室。そこがわたしの仕事場です。 ここでは、ありとあらゆるわすれものが、持ち主が現れるのを待っています。
傘も鞄も百円で買える時代、わすれものを取りに来る人は減るばかり。 多くの人たちは、どこかに何かをわすれたことさえ、わすれてしまっています。
だから、わたしは思うのです。ここに来る人は幸せだ、と。
駅に舞い戻り、窓口のわたしに説明し、書類に記入する、 そんな手間をかけてまで取り戻したいものがあるのですから。
「わすれもの、ありませんでしたか」
彼女が冷たい風を引き連れて、わすれもの室に入ってきたのは、年に一度のとくべつな日の夜のことでした。
彼女がいつも朝の七時二十四分発の列車に乗って、このさすらい駅から勤め先へ向かうことを、わたしは知っています。
列車を待つ間、ホームのベンチで本を読んでいることも知っています。
わすれもの室のカウンターから、ちょうど見える位置に、そのベンチがあるのです。
本を読む彼女の口元は幸せそうに微笑んで、わたしをあたたかな気持ちにさせてくれます。
「ホームのベンチに置きわすれてしまったんです」
初めて聞く彼女の声は、わたしが想像していたより、か細く、少し震えているようでした。
「赤い包装紙に紺色のリボンをかけた小さな箱なんですが……」
その箱は今朝、わすれもの室のカウンターの上に置かれていました。わたしが席を外して戻ってくるまでのほんの数分の間の出来事でした。壁の時計に目をやると、ちょうど七時二十四分発の列車が駅を出たところでした。
だから、わたしは幸せな勘違いをしてしまったのです。もしかしたら、これは、わたしへのおくりものかもしれない、と。
「ああ、あれは、わすれものだったんだ……」
わたしは心の中でつぶやいたつもりでしたが、彼女に聞こえてしまったようです。彼女が不思議そうにわたしを見ました。
「いえ、なんでもありません。届いていますよ。この箱ですね」
わたしは、カウンターの下にしまってあった箱を取り出しました。
「ああ、これです」
ほっとしたように彼女は言いました。
「まだ間に合いますね。今日のうちに渡せますよ」
このおくりものを受け取る幸せ者は誰なのだろうと思いめぐらせながら、わたしは言いました。
「実は……渡す相手が、いなくなってしまったんです」
そう言って、彼女は、紺色のリボンと赤い包装紙の間に挟まったカードを引き抜きました。
そのカードに何が書かれているかを、わたしは知っています。持ち主の手がかりを求めて、カードを開いたのです。いいえ、正直に言いましょう。わたしは、期待を込めて、カードを開いたのです。そこには、
《名前も知らないあなたへ いつも、さすらい駅であなたに会えるのが楽しみです》
と短いメッセージが綴られていました。
「ホームで列車を待つ間、あの人は隣のベンチで本を読んでいたんです」
彼女は、おくりものを受け取るはずだった相手について語りはじめました。ただ、誰かに聞いてもらいたかったのでしょう。それも、あまり親しくない誰かに。
わたしは郵便ポストのように突っ立って、彼女の話を静かに聞きました。
「本を読む横顔が素敵で、わたしも本を読むようになりました。言葉を交わしたことは一度もありませんでしたが、あの人と同じ本を隣のベンチで読んでいると、一緒に本を読んでいるような気持ちでした」
なんということでしょう。本を読む彼女の隣のベンチには、彼女の恋する人がいたのです。彼女の口元が幸せそうに微笑んでいたのは、そういう理由だったのでした。
「今日のとくべつな日に、あの人に想いを伝えたいと思いました。それでブラウニーを焼いたんです。チョコレートをたっぷり使って。でも、今朝、あの人は女の人と一緒に駅に現れました。いつも本を持っている左手は、彼女の右手につながれていました」
「それで、あなたは、渡せなかったおくりものをベンチに置いて行ったんですね」
「ええ。でも、ちゃんと自分の手で捨てようと思って……」
「捨てるなんて、もったいない!」
わたしは、思わず、自分でもびっくりするほどの大きな声を出していました。
「あ、いや、その……ブラウニーに罪はありませんから」
「だったら、一緒に食べませんか?」
「え? わたしと、ですか」
「ええ。一人で食べるのは、なんだか悔しいですから」
すぐに食べるのはもったいないと思い、取っておいたのは、幸いだったのか、わざわいだったのか。わすれもの室の小さなテーブルで、わたしと彼女は、行き場を失ったブラウニーを分け合うことになりました。
「こんなにおいしいブラウニーを食べ損ねたなんて、彼はもったいないことをしましたね」
「ええ、ほんとですよね」
彼女が少し笑ったように見えました。
本当は、彼女が他の誰かのために作ったブラウニーは、わたしには、苦すぎました。わたしへのおくりものだと思っていたら、実はわすれものだったブラウニーを、なぜか口にしている不思議を思いながら、わたしはその苦みを味わいました。
「楽しかった。このブラウニーを作っているとき……。うれしかった。毎朝、駅で会うたび……。今まで、本を読んで、こんなに幸せだったことなんて……」
彼女の目から、ぽたり、ぽたりと滴が落ちました。
彼女は静かに泣いていました。他に聞こえるのは、ストーブの上でやかんのお湯が沸く音だけでした。
《名前も知らないあなたへ いつも、さすらい駅であなたに会えるのが楽しみです》
彼女が味わった恋の甘さと苦さは、わたしが味わったものでした。
わたしがいれた紅茶を飲み終えて、彼女は顔を上げました。涙の跡が残る頬には赤みが差し、口元には微笑みが戻っていました。毎朝、わたしをあたたかな気持ちにさせてくれた、本を読むときの口元です。
「実は、わたしも今日、恋を失ったのです」「そうだったんですか。偶然ですね」
何も知らない彼女が去った後、テーブルには、ブラウニーを包んでいた紙が恋の名残のように残されていました。
「これでいいのです。わすれものを持ち主にお返しする、この仕事ほど、わたしをときめかせるものはないのですから」
わたしは、心の中でそっとつぶやくと、包み紙と小さな恋を畳みました。
口にするはずのなかったブラウニー
「彼女の苦いブラウニー」は同じ人に恋してふられた探し主と「わたし」の女性二人が痛み分けのブラウニーの苦さを味わう話。
「彼の苦いブラウニー」は、わすれものを「片想いの彼女から!」と勘違いした「わたし」が自分あてではなかったと知りる。彼女は彼女でその日、渡すはずだった想い人に失恋したものの、想いは募り、あふれる。彼女の失恋を聞きながら味わう、口にするはずのなかったブラウニー。
音due.(おんでゅ)のライブに書き下ろした当時は「ブーメラン失恋というかジェットコースター失恋というか」と記しているが、ブーメランよりリバウンド。失恋の二段重ね。二乗。上げて落とされて追い討ち。これはかなり痛い。苦い。
「わたし」が「こんなことがありまして」と語れるようになるまでには、しばらく時間がかかったのではないかと思う。
ブラウニー(の画像)を探して
わすれもの室シリーズのタイトル画像は自分で撮った写真をモノクロにしたものを使っているのだが(例外はクリスマス版)、今回はブラウニーの写真を探すことにした。
ところが、チョコレートテリーヌやガトーショコラの写真はあるのだが、ブラウニーの写真が出て来ない。惜しいけど違う。友人のパティシエ亜紀ちゃんのインスタにもなく、お菓子作り名人のまいちゃんのインスタを見ると、どんぴしゃなのがあった!
りんご入りのブラウニーで、背景にはりんごが。英字新聞っぽいペーパーもオシャレ。
「まいちゃん使わせて〜!」
「ええよ〜」(←お互い関西人)
と元画像を送ってもらった。モノクロにするとレンガみたいになってしまったので、カラーのままにして、ドラマティック(暖かい)のフィルターをかけた。「彼女」版と「彼」版でアングル違いに。タイトル画像だと天地が切れてしまうのでフル画像をご紹介。
ブラウニーの下に敷いているペーパーをラッピングの包み紙に見立て、加筆で登場させてみた。また、「彼の」と「彼女の」を行き来して、それぞれ加筆。よりビターな後味に。
Clubhouse朗読をreplayで
2022.2.12 小羽勝也さん(宮村麻未さんは「彼女の苦いブラウニー」を)
2022.2.14 こまりさん×小羽勝也さん
2023.2.14 鈴木順子さん×Takahiro Nagaiさん(愛とはワタシってこと)
2022.11.30 関成孝さん
2022.12.2 関成孝さん
2022.12.8 鈴蘭さん
2022.12.21 関成孝さん×宮村麻未さん
2023.2.14 こもにゃんさん
2023.2.14 鈴蘭さん
目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。