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ワケありを分け合って─さすらい駅わすれもの室「彼女の苦いブラウニー」

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「彼女の」「彼の」苦いブラウニー

2016年2月13日、14日に開かれた音楽と言葉のユニット「音due.(おんでゅ)」の2nd live。バレンタインデーにちなんで、書き下ろし作品を2つ寄せた。

ひとつは「ギターがピアノに恋をした」。もうひとつが、「さすらい駅わすれもの室」シリーズの「苦いブラウニー」。3公演あるので、わすれもの室を守る「わたし」とわすれものを探しに来る人の役を入れ替えて、大原さやかさんと西村ちなみさんが朗読することに。

せっかくなので、設定も少し変えてみましょうかとレシピをアレンジするノリで2バージョン作りましょうとなった。

noteで公開するにあたり、わすれもの室を守る「わたし」が女性で「七時二十四分発の列車の男性」に失恋するこちらのバージョンを「彼女の苦いブラウニー」、「わたし」が男性で「七時二十四分発の列車の女性」に失恋するバージョンを「彼の苦いブラウニー」(10.21公開)と呼び分けることにする。

今井雅子作  さすらい駅わすれもの室「彼女の苦いブラウニー」

さすらい駅の片隅に、ひっそりと佇む、わすれもの室。そこがわたしの仕事場です。ここでは、ありとあらゆるわすれものが、持ち主が現れるのを待っています。

傘も鞄も百円で買える時代、わすれものを取りに来る人は減るばかり。多くの人たちは、どこかに何かをわすれたことさえ、わすれてしまっています。 

だから、わたしは思うのです。ここに来る人は幸せだ、と。 

駅に舞い戻り、窓口のわたしに説明し、書類に記入する、 そんな手間をかけてまで取り戻したいものがあるのですから。

「わすれもの、ありませんでしたか」

その若い女性が、冷たい風を引き連れて、わすれもの室に入ってきたのは、年に一度のとくべつな日の夜のことでした。

「赤い包装紙に紺色のリボンをかけた小さな箱です。ホームのベンチに置きわすれてしまったんですが……」

手袋をはめた手を無意識にこすり合わせながら、彼女はわたしに尋ねました。

彼女の言う通り、その箱は今朝、ホームのベンチにぽつんと置かれていました。七時二十四分の列車が出たすぐ後のことでした。

「届いていますよ。この箱ですよね」

わたしは、カウンターの下にしまってあった箱を取り出しました。

「ああ、これです」

彼女が、ほっとしたように息をつきました。

わすれものを持ち主の手にお返しする、この瞬間に立ち会いたくて、わたしは、わすれもの室の仕事を続けているのかもしれません。

「まだ間に合いますね。今日のうちに渡せますよ」

わたしが声を弾ませて言うと、彼女は顔を曇らせました。

「いいえ……これはもう必要ありません」
「どういうことですか?」
「渡す相手が、いなくなってしまったんです」

そう言って、彼女は、紺色のリボンと赤い包装紙の間に挟まったカードを引き抜きました。そこには、

《名前も知らないあなたへ いつも、さすらい駅であなたに会えるのが楽しみです》

と短いメッセージが綴られていました。

「ホームで列車を待つ間、あの人は隣のベンチで本を読んでいたんです」

彼女は、おくりものを受け取るはずだった相手について語りはじめました。

「言葉を交わしたことは一度もありませんでしたが、本を読む横顔が素敵で……」

その人のことなら、よく知っています。彼は、いつも七時二十四分発の列車に乗って、このさすらい駅から勤め先へ向かうのです。

列車を待つ間、彼はホームのベンチで本を読んでいます。わすれもの室のカウンターから、ちょうど見える位置に、そのベンチがあるのです。

本を読む彼の口元は幸せそうに微笑んで、見ているわたしをあたたかな気持ちにさせてくれます。言葉を交わしたことは、わたしもありません。ただ、窓越しに見ているだけです。本を読む彼の横顔を。

「今日のとくべつな日に、あの人に想いを伝えたいと思いました。それでブラウニーを焼いたんです。チョコレートをたっぷり入れて」

わたしは彼女のように想いを伝えようなどと思ったことはありませんでした。一方通行だからこそ成り立っている朝の楽しみが、形を変えてしまうことを恐れていたのです。

「でも、今朝、あの人は女の人と一緒に駅に現れました。いつも本を持っている左手は、彼女の右手につながれていました」

「えっ」と小さな声が漏れたのを、幸い、彼女には気づかれませんでした。

あの人と、あの人の読む本で完成していた美しい世界がこわされていたというのです。今朝、年配の男性が切符売り場にわすれたという手帳を探していたわたしは、その光景を見逃していました。

「それで、あなたは、渡せなかったおくりものを、ベンチに置いて行ったというわけですね」

動揺を悟られないよう、いつもより事務的な口調で、わたしは聞きました。

「ええ。これは家に持ち帰って、捨てます」
「捨てる?」

わたしは思わず、尖った声で聞き返しました。

「捨てるつもりなら、どうして取りにいらしたんですか」
「それは、誰かに見られたら恥ずかしいと思って……」
「わすれものを持ち主にお返しするのが、わたしの仕事なんです。捨てるなんて言わないでください」
「そんなの、私の勝手じゃないですか!」

自分でもおかしなことを言っているのは、わかっていました。でも、七時二十四分の人におくるつもりだったブラウニーを彼女が捨ててしまったら、わたしのはかない恋もゴミ箱へ送られてしまう気がしたのです。

「そこまで言うなら、あなたが食べてください」

彼女は、投げやりに言いました。

「だったら、一緒に食べませんか?」

わたしは、いくぶん穏やかさを取り戻した声で言いました。

「あなたと?」
「ええ。わたしも今日、恋を失ったんです」

わすれもの室の片隅の小さなテーブルで、わたしと彼女は、行き場を失ったブラウニーを分け合いました。やり場を失った気持ちと胸の痛みも分け合っていることは、わたしだけが知っていました。

「こんなにおいしいブラウニーを食べ損ねたなんて、彼はもったいないことをしましたね」

わたしがそう言うと、彼女はブラウニーに突き刺さったフォークを見つめて、言いました。

「おいしいに決まってる……。最高級の材料を使って、心をこめて作ったんだから……」

本当は、彼女が彼のために作ったブラウニーは、わたしには苦すぎました。わたしは、自分が彼のために作り、渡せなかったブラウニーを食べているような気持ちになっていました。

「楽しかった。このブラウニーを作っているとき……。うれしかった。毎朝、駅で会うたび……。あの人と同じ本を買って、隣のベンチで読んでいると、一緒に本を読んでいるみたいで……。今まで、本を読んで、こんなに幸せだったことなんて……」

彼女の目から、ぽたり、ぽたりと滴が落ちました。

彼女は静かに泣いていました。他に聞こえるのは、ストーブの上でやかんのお湯が沸く音だけでした。

《名前も知らないあなたへ いつも、さすらい駅であなたに会えるのが楽しみです》

彼女が味わった恋の甘さと苦さは、わたしが味わったものでした。

ブラウニーを食べ終え、わたしがいれた紅茶を飲み終えて、彼女は顔を上げました。

「ありがとうございます。一緒に食べてくれて」

涙の跡が残る頬には赤みが差し、口元には微笑みが戻っていました。それもまた、ブラウニーとともに彼女が駅に置いて行ったものでした。

彼女が去った後、テーブルには、ブラウニーを包んでいた紙が恋の名残のように残されていました。

「これでいいのです。わすれものを持ち主にお返しする、この仕事ほど、わたしをときめかせるものはないのですから」

わたしは、心の中でそっとつぶやくと、包み紙と小さな恋を畳みました。

痛み分けのブラウニー

初公演時には「女性編」「男性編」と呼びかけていたが、その違いを「女性編は痛み分け」「男性編はブーメラン失恋というかジェットコースター失恋というか」と当時のTwitterに記している。

わすれものは「バレンタインデーにおくるブラウニー」。探しに来るのは「ブラウニーを手作りした女性」。彼女は「バレンタインデーの朝」に「さすらい駅で失恋」する。

その設定は共通にして、わすれもの室を守る「わたし」を女性と男性に分けた。

どちらの「わたし」も、「バレンタインデーの探しもの」をきっかけに「失恋」する。そして、探しものである「ブラウニー」を探し主と一緒に食べる。

彼女が味わった恋の甘さと苦さは、わたしが味わったものでした。

その「苦み」は、「彼女のブラウニー」と「彼のブラウニー」で異なる。失礼の味が違うのだ。

「彼女の苦いブラウニー」の「わたし」は、探し主と同じ人に恋をしていた。二人で分け合うブラウニーは痛み分けの苦い味。

彼の苦いブラウニー」で「わたし」が味わうブラウニーは、さらに苦い。

映画『バレンタインデー』の劇場パンフに寄せたエッセイ「愛とは、ワタシってこと」もあわせてどうぞ。

音due. 2nd Live − Heart − プログラム

2016年2月13日(土)夜 14日(日)昼夜
二子玉川 KIWAにて

『ことばのかたち』
作:おーなり由子(講談社刊「ことばのかたち」)
♪ 『ことばのかたち』のテーマ 作曲:窪田ミナ

『雨傘』
作:川端康成 (新潮文庫刊「掌の小説」所収)
♪ suites『雨傘』 作曲:窪田ミナ

『チョコレート・レイディ』
作:田丸雅智(光文社文庫「ショートショート・マルシェ」所収)
♪ suites『チョコレート・レイディ』  作曲:小笠原肇

『さすらい駅わすれもの室~苦いブラウニー編~』収)
作:今井雅子
♪ suites『さすらい駅わすれもの室』 作曲:窪田ミナ、小笠原肇

『ギターがピアノに恋をした』作:今井雅子
♪ suites『ギターがピアノに恋をした』作曲:窪田ミナ、小笠原肇

『生きる』
作:谷川俊太郎(ハルキ文庫刊「谷川俊太郎詩集」所収)
♪『生きる』のテーマ 作曲:小笠原肇

Clubhouse朗読をreplayで

2022.2.12 宮村麻未さん(小羽勝也さんは「彼の苦いブラウニー」を)

2022.2.13 大文字あつこ(おもにゃん)さん

2022.12.2 関成孝さん(「彼の苦いブラウニー」と二本立て)

2022.12.8 鈴蘭さん

2023.2.14 おもにゃんさん

2023.2.14 こもにゃんさん

2023.2.24 鈴蘭さん


目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。