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肯定的な「ヤバイ」のオカザイル説

皆さんは辞書をお持ちですか。私は英語の電子辞書のプロフェッショナルモデルを持っていますが、普段はネットで確認することが多いです。正しい言葉の意味や使い方を知りたいとき、辞書に立ち返るものです。そこに正解があるような気がして。でも、もし辞書が正解なら、辞書はどうして版が重ねられ、正解が書き換えられていくのでしょう?見やすくするため?例文を変えるため?

答えは「言葉は変わっていくものだから」です。言語も新陳代謝をしており、古くなって使わなくなった言葉もあれば、意味が変わった言葉も新語も存在します。このように変化した言葉を含め総チェックしなおして、「現時点の正解」を更新していくのです。

「ボリューミー」は英語?

最近、「ボリューミー」という表現をよく耳にするようになりました。テレビ番組の食レポで、レポーターが並べられた料理を見て「うぁ、皆さん見てください。このボリューミーな料理の数々!」なんて言っているのを聴いたことはありませんか。「私も使ってます」という方もいることでしょう。

私の体験では、「ボリューミー」という表現は昔から使われているような言葉ではありません。最近になって少しずつ市民権を得つつある表現です。英語には近い言葉として "voluminous"という単語はありますが、 "volumy"なる言葉はありませんので、これは完全な和製英語です。 "resilience" を「レジリアンス」(回復力)というカタカナで輸入したのとは事情が異なります。 

「ボリューミー」を使い始めたのは誰だ?

これまでなかった言葉が広く使われ始めるには、きっかけがあるはずです。では、「ボリューミー」を最初に使い始めたのは誰でしょう?答えは・・・わかりません。一人の人から始まったのかもしれないし、一部の人たちの間の俗語があるとき一気に電波にのって広がったのかもしれません(後者にうついては後述)。

個人的な記憶で言うと、もうしばらく前になると思いますが、出川哲朗さんが何かの番組で「ボリューミー」という言葉を使っていて、周りの人がそのワードチョイスに「大うけ」していたシーンを覚えています。けれどもその出川さんも誰かが使っているのをたまたま覚えていたか、あるいは無意識に記憶として残っていたりしたものを使ったのかもしれません。あるいは、ひょっとしたら彼のセンスでとっさに奇抜なワードがその時君臨したのかもしれません(後者の場合、氏が発明者となるのでしょう)。

「ボリューミー」は間違い?

「ボリューミー」が和製英語なら英語的には誤りですが、日本語としてはどうでしょう?保守的な立場を取れば、それは「乱れた」カタカナ語ということになります。言語が変化するものであれば、この立場は言語の純血主義と表現することができるでしょう(ちなみに「純血」という表現ですが、そもそもみんな生物学上に父と母の「混血」であり、「純血」というのはある意味フィクションです)。

逆により現実主義に立てば、実際にそうやって使っている人がおり、認知され始めているのだからいいんじゃない?ということになります。先の言語の純血主義に対し、これを言語の混血・ハイブリッド主義、実用主義(プラグマティズム)などと表現できるのかもしれません。

ということは、簡単に「ボリューミー」が正しいとか誤りなどとは言いにくい。そもそも言語が変化し続けているわけだから、ストップウォッチを止めてそこを基準に捉えるのか、変化しているさまを重視するのかで立場は変わるものです。もしかしたらその人の性格や趣向次第なのかもしれません。

肯定的な「ヤバイ」の登場!

ほっぺたが落ちるようなすごくおいしいものを口にほおばったとき、「ヤバイ!」って言う方はどのくらいいるでしょうか。私は普通に使います。ご存じと思いますが、この言葉はもともと悪い意味で使われてきました。「ヤバイい人」と言えば絶対近づいていてはいけないような危険な人のことを指したし、「ヤバイ歌」と言えば歌詞にひどい言葉が羅列されているようなイメージを喚起させたものです。「ボリューミー」同様、肯定的な意味での「ヤバイ」は昨今広く使われるようになった新しい表現です(「ヤバイ」の方が長いでしょうか)。

ではこのいい意味での「ヤバイ」の起源はどこにあるでしょうか。「ボリューミー」と違って、これについては私が強く信じる仮説があります。それは『めちゃ×2イケてるッ!』というかつての人気番組の企画「オカザイル」(2007)です

ナインティーンナインの岡村さんと矢部さんは、人気絶頂だったEXILEとのコラボ企画を持ち掛けるため、リーダーのHIROと会います。そこで岡村さんとのコラボのことをメンバーの夢だと述べつつ、「ヤバイ」と表現したのです。そのシーンを引用してみます。(*聴き取りが正確でない場合があるかもしれません)

HIRO「(EXILEは)夢をテーマにして活動してきたグループなんで、そのEXILEのメンバーの夢の一つである岡村さんと共演する・・・」
矢部「ほんまですか!?」
HIRO「めちゃイケ、みんな大ファンなんで。やっと夢が叶うんじゃないか、みたいな」
岡村「(もったいぶった顔して)でもあのぉ、まだその決定じゃないんで。まだ迷ってます、俺。すみません。」
矢部「ちょっと笑顔になってたね?(笑)」
(略)
HIRO「岡村さん、まじで面白いんで。」
岡村「(気取って)あ、そうっすか」
HIRO「それはもうメンバーのなかで、すごいリスペクトです。はい。」
矢部「逆にHIROさん、岡村さんをよく知ってますよね。」
HIRO「はい、みんな、ヤバイです。(二人やスタッフ大笑い)まじヤバイっす。
矢部「みんなヤバイですって…ヤバイをそういう使い方されるんですか?
岡村「すげぇ、ヤバイっす(照)」(テロップで、「注 「ヤバイ」を生まれて初めていい意味で使った岡村さん。」
HIRO「ヤバイっす。」
岡村「ヤバイっすよー。HIROさん、ヤバイっすよー。

企画の名前も「いい意味でヤバイっす オカザイルスペシャル!!」

最後の黒字で記した「ヤバイ」をめぐるやり取りは、その後も番組中ネタとして登場し、そのまま企画名にもなっています。つまり、この時点では「ヤバイ」という表現は通常「悪い」意味でしか使われていなかった、ということです。このめちゃイケ企画がオンエアされた2007年8月5日夜8時過ぎ、この瞬間がフジテレビの電波にのって全国に「いい意味での『ヤバイ』」が世に知れ渡る瞬間ではなかったか。これが私の仮説です(*あくまでも印象です)。

ではそのEXILEのメンバーらはどうして「ヤバイ」をいい意味で使ったのか。それは本人たちに聴いてみないとわかりませんし、覚えていらっしゃるかも定かでないかもしれません。それでも聴いてみたいという興味を禁じえませんね。

ことばは「モノ」ではない、私たちの一部です

冒頭の絵では、二人とも言語の眼鏡をしています。私たちは言語をコミュニケーションの「道具」として捉えがちです。しかし、道具とは利用できるモノのこと。それを使う人と道具は別物です(人≠道具・モノ)。しかし、言語は目的を前に「道具的」に捉えられることはありますが、「モノ」とは違います。実際、その実体は空気の振動でしかなく、振動自体に意味はありません。

コミュニケーション学的には、言語は私たちの認識、考え、価値観などに深く関係していると考えます。私たちは言わゆる「現実」そのものをそのまま見ているわけではありません。実際にはその逆で、世界の多くを言語を通してたちあげているのです。

言語を「モノ」として扱いがちな私たちの常識を通して言語を見てしまうと、言語と私たちの関係を見損ねる恐れがあります。「言語」について考えている際、私たちはどうやって考えていますか。「言語」で考えていますよね。「心理」について考えているとき(対象)、考えるという私の行為自体「心理」的な現象でもあります。つまり、人間について考えるとき、基本的には(例えば地学者が岩石を分析するように)モノを対象として考えるのとは違って、半分は人間を対象にしつつ、もう半分はその対象にすでに足を突っ込んでいる。そこには、つねに二重性があるのです

最後少しねちっこい言い方になりました。言葉を考えることは面白い、でも考え方に気をつける必要があります。まずは、言語は辞書の中にはない(それは事後的な追認)、私たちの日常の中で生き、言語行為によって新陳代謝を繰り返している、というのが今日のポイントでした

追記

オカザイル企画もカッコよかったですが、SMAP企画大好きでした。SMAP、サイコー👍

あと、言語と認識の関係を考えるのによい本をいくつか挙げておきます。


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