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余白の人と一緒にいる幸せ

何かにとりかかる時や特定の時間を過ごしたい時、何か目的があってその時間を過ごしたい時に、「この人といたい」という人がいる。例えば一緒に映画を見に行くなら「この人」、仕事をするなら「この人」、飲み会なら、悩みごとを打ち明けるなら、おしゃべりをしたいなら、にそれぞれ「この人」がある。
 
過ごしたい時間と人とが呼応していて、それぞれで充実した時間を過ごす。
最近は特にコロナで人づきあいが制限されたこともあって、お付き合いでの人間関係はだいぶ清算された。
 好きな人や相性の合う人との活動は楽しい。だが、「ああ、もういいわ」という時間も来る。そして「今日はお開きで」とそれまで活動の余白のところから見ていた自分が、クロージングに向かわせる。いろんな活動をしていても余白はかならずあって、そこから今していることを眺めたり、全体のバランスをみたりしている。
 
余白とは、活動をしていないところからそれを見ている場所。たとえ、たくさんの役割や活動をしていても、人間の活動には常に余白がある。
 
その余白から、自分がしていることを眺めているわけだが、そこは、なにもしていなくてもよかったり、自分らしくあっていい場所(ゼロの意味で)だったりする。
つまり、余白とは、「居場所」なのではないか、と思う。
 
僕の場合、余白とはどこになるのかと考えると、それは家庭だったりする。僕は妻とはあまり話さないほうだ。共通の話題もあまりなく、なにか一緒にすることも少ない。
子どもがまだ小さいので、子どもの遊びに付き合ったり、習い事をどうするか等、子育てについての希望や手続きについては話はするが、なにか一緒に楽しむことは少ない。
 それは、共通の趣味がないのもある。
結婚してだんだん話すことがなくなってきて、「何も話すことがないなあ、夫婦ってこんなものかなあ」と思ったこともあった。友人といたほうが楽しい。
しかし、疲れなかったり、そばにいると一番しっくりくる感覚は他の人とは違うのだ。
それはつまり、彼女が余白の人だからなのだと思った。
自分が(楽しむことも含めて)何かをしないといけないと、それに囚われているうちは余白の人の良さは見えない。しかし、このままでいいと思ったときに、余白の良さと、そこに人がいることのありがたさに気づく。人生のパートナーは、余白の人がいい。そこから一緒にいろんな物事を、眺めていてくれたらいいのだと思えた。

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