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世のなかけっこう性善説。みんなゆるく信じあっている。時に、怖い

※このエッセイの内容・行為を勧めたり喚起したりする意図はありません。悪さ・イタズラ・迷惑行為・犯罪はくれぐれも行わないでください。

新宿御苑にて

新宿御苑をふらふら歩いていて、ふと思った。世のなか、性善説にのっとった、フワっとした信頼で成り立っていることが結構多いなあって。

たとえば、新宿御苑は大人500円で入れる都会のど真んなかにある憩いの場。広大で、しかも池と緑が豊かな庭園で知られている。「憩い」といわれるくらいなので、御苑は「お酒」や「ペット」「ドローン」の持ち込み(連れ込み)が禁止されている。けれど、入場時に手荷物検査があるわけではない。変な話、持っていこうと思えば持っていける環境にある、し、園内をくまなく監視している感じもしないので(というか、たぶん監視員っていないのでは……)酒宴だってやろうと思えばやれると思う。

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でも、「きっと、みんな、そんなことしないよね」っていう信頼を前提にして、実際にみんなもそう振る舞っているから、問題なくやれている。

スタバ、マクドナルドにて

よく考えてみれば、スターバックスでコーヒーやラテを受け取るあの瞬間からも、「みんな、そんなことしないよね」っていう想定が垣間見える。あの瞬間、店員さんは番号やレシートを確認したりはしない。これも変な話、ほかの人が注文したフラペチーノを、スーっとさも自然かのように受け取ってしまえば、それで飲めてしまうと思う。たぶん。

マクドナルドもそうだよね。マックではレシート番号との符合があるけれど、あれはあくまで注文したものの順番待ちを整理して、「あなたの番がきましたよ」っていうフラグとして機能する符合作業であって、やはり店員さんはレシートの番号をいちいち確認したりはしない(少なくとも僕の周辺では)。やはり、いけないことも、やろうと思えば、やれてしまう……。

これらが「とどこおりなく」コミュニケーションとして良い形に成立しているのは、そこに「信頼」があって、信頼がおけるという性善説が機能しているからだ。

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としまえん、ディズニーランドにて

以前、としまえん(だったと思う)でこんなことがあった。家族3人、ベビーカーを押して入場する時のこと。友だち夫婦の妻はふつうにチケットで、夫はベビーカーを押しながら子どもと共に専用入口で、園に入った。そしてちょっと経って、夫のほうが「あれ? おれチケットみせてねーわ」って気づいて、あわてて入場口に駆けて行った。

あれって、あのまま見せないで園内を回っていたら、どうなっていたのだろう、と思う。

遊園地ってたぶん、入場者数と退場者数ってカウントしているところってあって、その両カウントは、けっこう一致しないことが多い気がする。たとえば、入口でなぜかチケットなしに入場できちゃって、そのままなかにとどまったら、どうなるのだろう。スタッフさんは「あれ? 退場者数がひとり少ないな。園内を回って人が残ってないか確認するか」みたいな発想は当然すると思う。でも、毎日毎日、微妙に数が違うって状態だったら、その確認作業もルーチンになって、時におろそかになったりするかもしれない。そうなると、なかにとどまった人は、そのまま、なかで一夜を明かせるかもしれない。

ディズニーランドに行くたびに、「このままなかにとどまりたい」と思って、上のようなことを思索している。やったこと、ないけど。仮にうちの子が「帰りたくない!」っつって、ディズニーランドのどこか草葉のかげに隠れて、そのまま見つからないで一夜が明ける、なんてことも、可能性としてはあるのかなあ、とか、まあ、ときどき思ったりする。本気で隠れたら、見つからないかもしれない。セコム範囲外なら、なおさら。それで、「一晩あかす過程で、悪さ、してやろう」って人が現れたら、どうなるんだろう。なんか怖い。

空気みたいに信じる

僕らの生活は、そんな感じの、まさに「みんな、そんなことしないよね」っていう、うっすーい信頼というか、とりたてて意識もあまりされない性善説で成り立っている。マクドナルドの店員さんって、そもそも赤の他人で、素性もわからない。なのに、その店員さんがわたしてくれるハンバーガーに「毒は、もられていない」と僕らは信じる。そう信じられるのは、それが「マクドナルドの店員さんならこうするはず」という役割への信頼があるからだ。

バーガーを受け取るあの瞬間、僕らは店員と客という役割を信じている。だから、あのやりとりが成立する。エレベーターに同時に乗った人が急に襲ってこないという信頼も、そうだね。電車で、となりに座っている人が急に襲ってこないとか、駅のホームで列車待ちしている時に、うしろの人が急にドンっと押してこない、とか、買った宝くじがまったくの「ガセキャンペーン」ではない、という信、とか。

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疑いだしたら、まずまず、そもそも社会も経済も成り立たない。

オウムのサリン事件、秋葉原・やまゆり園の事件

でも、そんな日常が、信頼が、時に、センセーショナルに破られることがある。オウムの地下鉄サリン事件も、加藤智大氏の秋葉原通り魔事件も、津久井やまゆり園の相模原障害者施設殺傷事件も、「まさか」って感じで、うっすーい信頼の膜を割いて、現れた。それが、あまりにも平凡な、ずっと続くかに思える日常を割くから、僕はとても、恐怖を感じる。

だからか、僕は、たまに「もしも」を追求する。もしくは、こういう記事みたいな、「信頼の薄さ」に冷や汗をかくような文章を読んで、なんとなく、心を静めるようにしている。

でも、だからといって、すべてを疑って不安になっては苦労するので、けっきょく僕は「この飛行機が落ちることは、ねぇわ」と思って飛行機に乗るのだけれど。「落ちた時は、まあその時はその時だわ。死ぬしかない」っつって。

[新宿御苑公式]
https://fng.or.jp/shinjuku/

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