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個育てを応援する保育所経営者・上田美雪の自分史|インタビュー(聞き手:ライター正木伸城)

日本の子育てをアップデートしたい――「子育て」を「個育て」と表現して夢を語る上田美雪(うえだ・みゆき)さんは、現在2社の会社を動かしながら事業の一環として3つの保育園、1つの英語スクールを経営している。また、キッズ系のイベントやパパ・ママなどの保護者を対象としたワークショップ等さまざまな催し物も精力的に実施中だ。

彼女はこれまで、子育てにまつわる周囲の現状と、世界の子育て事情をつぶさに見てきた。その中で彼女は「日本のパパ・ママも、子どもも、子育てを通じてもっと幸せになれるのではないか」と感じたという。その真意とは何か。彼女の"順風ならざる"これまでの生き方をひもときつつ率直な思いを訊(き)いた。

「個育て」という概念にこめた思い

――上田美雪さんは「子育てをアップデートさせたい」という夢を語られています。「子」の漢字にあえて「個」の字をあてて「個育て」と表現もされている。どのような思いがこめられているのでしょうか。

私自身も経験のあることですが、子育てしている保護者が幸せでないと、子どももどこか幸せになり切れないんです。日本の子育てを見ていると、切羽詰まった保護者が多いように感じます。保護者も子どもも息苦しくなっている。もし大人が楽しそうに子育てをできるなら、子どもはもっと楽しそうにすると思うんです。私は、そんな子育て環境を広げたいと考えています。理想論のように聞こえるかもしれませんが、子育てを通じて保護者も子どもも「個」として成長できれば、お互いが幸せになります。そういった「個」の成長機会を提供しようというのが私の「個育て」のコンセプトです。

子育てというと子どもの「育ち」に目が行きがちです。でも、子育てをめぐっては、当然、親も相当に苦労しています。ほとんど無意識の次元になっているかもしれませんが、たとえば「保護者なんだから○○しなければいけない」といった社会的規範の中で身もだえしている人もいます。仮に、ママが子どもを置いて一人で遊びに出かけたらどう思われるでしょうか。眉をひそめる人は現在も結構いると思うんです。ですが、「親が一人で出かける」ことって、ヨーロッパ等では普通のことで、あちらでは「子育ては自己犠牲ではなく自己実現」という価値観が浸透しているんですね。いたずらに欧米を礼賛するつもりはありませんけど、でも私は、保護者がどこか自分を押し殺して子育てに参画している日本の現状を見るにつけ、そんな大人を解放させてあげたいと思うんです。これも「個育て」で大切にしている要素です。

――「個育て」では親の個性を伸ばすことも目的にしているのですね。

私が展開している「個育て応援プロジェクト」がそうですが、大人は大人で楽しんで、子どもは子どもで楽しむという環境をつくっています。子どもは遊びの天才です。少々構わなくても勝手に遊びをつくり出して楽しみます。だから構い過ぎる必要はない。個育てイベントでは、その天才性を信頼して子どもの遊びは子どもに"任せて"、その間に大人は大人で楽しい語らいのひとときを過ごすという仕組みをとっています。「面倒を見なきゃ」といったところで大人が我慢し過ぎる必要はない。むしろ、個育てイベントで大人がすごく楽しそうにしている姿を、遊びから戻った子どもに見せた方がいい。些細なことかもしれませんが、こういったところから日本人の考え方が少しずつ変わっていったらいいなと思っています。

子育ては自己犠牲ではなく自己実現

――先ほど「子育ては自己犠牲ではなく自己実現」と語られましたが、まさにそこが「個育て」の肝になっていると。

たとえば、旅行の行った時のヨーロッパの人って、親が本気でバカンスを楽しんでいて、子どももすごく穏やかなんですよね。ホテルの中で子どもが自分たちなりに遊んでいるんです。すごく「個」が自立している。ホテルのキッズスペースも充実していて、楽しい。ヨーロッパのそういった良いところは吸収していきたい。日本人も「子育てを良い具合に手放す」ことができれば、変わってくると思います。

いまの私たちの世代から「子育てってもっと自由でいいんだ」という価値観を広げたいです。子どもが生まれて子育てが始まることは、新たな自分との出会い直しのチャンスでもあるし、新しく自分らしさを追求するステージにあがることでもあります。そう捉えている人はまだまだ少ないかもしれませんが、子育てが「自己犠牲」的でなく「自己実現」の場になるのだとすれば、こんなに良いことはないなって思います。

私の娘が母親になる頃には、キャリアやタイミングを気にせずに「子どもをさずかる・育てることが楽しみ」という風潮をつくれたら、との夢を描いています。

保育園設立の準備に奔走していたころ、母の横で食事をとる娘

面倒見の良い長女。経営者マインドにも触れる

――「個育て」に対する上田さんの情熱がどこから来るのか、その淵源について伺いたいと思います。美雪さんはどんな環境で育ってきたんですか?

私は3人姉妹の長女で、東京・世田谷区で生まれました。「長女なんだからしっかりしなさい」といった「ザ・長女」に育て! 的な、昭和感たっぷりの環境で育てられました。妹の年齢は私の3歳下と7歳下です。両親が共働きだったので、小学校低学年の時から妹たちの面倒を見ることがデフォルトでした。たとえば、私の夏休みの日々のルーティンはこんな感じです。朝食を食べたら、もう両親は働きに出かけています。私は朝ごはん後の食器洗いをし、お昼ごはんをつくって、妹たちに食べさせます。そのあと、また洗い物をしたら、こんどは夕飯の買い物に出かける。加えて、妹の習いごとの送り迎えもしました。

――小学校低学年でもうそんなに自立していたんですね。

でも、甘えたい気持ちはありました。なので、父と母に甘えられない環境だったからこそ、私はすっかり「じいちゃんっ子」でした。同居していた父方の祖父と、近所に住んでいた母方の祖父から、考え方や生き方を学んだのをよく覚えています。

今につながる話でいえば、小学4年生くらいの頃から祖父がやっていた中華料理店の手伝いに入りました。そこで大人とほぼ同レベルのホールスタッフ業務を任されたんです。お会計や、お冷や・おしぼり出し、メニューの提供などなど……。ホール業務を通じて教わったのが「目を見てあいさつをしなさい」「お客さまは大切なお金を使って食べに来てくれている」「感謝の気持ちはしっかり伝えなさい」といったことでした。

そんな祖父に一度、激怒されたことがあります。鶏ガラスープの鶏が届いた時のことです。鶏ガラってけっこう不気味で、つい「気持ち悪い……」って言ってしまったんです。そうしたら祖父が「そんなことを言うんだったら、仕事はやらなくていい!」と怒ってしまって。その夜、自分が悪いなと思った私は、祖父のもとに謝りに行きました。すると祖父は、さまざまなことを教えてくれました。お客さんに美味しいものを食べてほしいという真心、お客さんをもてなすホスピタリティの大切さ、プロフェッショナルとしての意識――。以後、私は自身の態度を改めました。

自立や個を意識した原点

――それは経営者マインドとも言えるかもしれません。学ぶにしても早熟です。上田さんには自立を意識する原点みたいなものはありますか?

転機はありました。私、小学6年生の時に転校をしたのですが、転校先でイジメに遭ったんです。女子全員から急にシカトされるようになって。学校に行ったら誰も口をきいてくれないんですね。なんで? なんで? って思いました。原因を考え、自分を責めましたが、まったくわからない。それで、ある日の給食の時間です。食事前に、日直とかが毎日前に出て行って「いただきます」の号令をかけるのですが、その際に私が前に出て行って、女子たちに向かって「ねえ、私が何かしましたか?」って言ったんです。これには勇気が要りました。今でこそ違いますけど、私は人前で話すのが大の苦手だったんです。震えながらしゃべりました。でも、この一件が転機になって状況が変わっていった。

その時に学びました。「何かアクションをとらないと、物事は前に進まない」って。思うことや言いたいことがあっても、表現しなければ何も変わりません。逆に、感じたことをアウトプットすれば、状況が良くなることはあります。だったら「これからは言葉にしていこう」と思いました。このマインドチェンジが反抗期にも結びついていきます(笑)。

――反抗期(笑)。

最初は小さな抵抗だったんです。それまでは習いごとも言われるがままに行っていたんですけど、「ほんとうはピアノ、行きたくないんだよね」って親に言ったり。そこから徐々に自己主張するようになって、高校1年生の時には2週間くらい家出もしました。当時、携帯電話的なツールでPHSってありましたよね。その使い方について父と喧嘩して、家出したんです。

――おお! いきなりスゴイ話になった(笑)。

コミュニケーションのすれ違いが原因だったと思います。ただ、ものすごく反省しました。「私が自分の言葉をもっと素直に口にできていたら、こんな風にならなかったのに」って思いましたし、一方の「親の接し方」も、子どもながら「反面教師にしよう」と決めました。家族とはいえ、お互いにどう思っているかを伝え合わなければ気持ちはわかりません。本音が不明なままだと、家族がギクシャクしてしまうこともあります。家の中でしっかり話し合うことの大切さを学びました。

大学でも商才を発揮。そして就職へ

――その後、大学に入学されます。どんなことを学ばれたんですか?

大学は……(笑)。入ったんですけど、辞めました。学びたいこととかも特になく、ストリートダンスのサークル活動ばかりしていました。ダンスをして、公演会も開いて。ものすごく大きなサークルだったので、年間予算が1000万円くらいあったんですね。私はそこで会計やら広報やら渉外担当やらの役割がある中、いろいろなことに挑戦して、それこそ「舞台を借りてお金を回して、お客さんに見に来ていただいて、結果、収支がどうなったか」を見ることばかりしていました。それが楽しくて。

――そこでも商才を発揮している(笑)。

で、在学中にインターンでホテルのキッズクラブに行くようになって、そのまま就職して大学は中退しました。なぜキッズクラブを選んだかというと、子どもの頃に家族旅行に行った先で出合ったキッズクラブの印象が強かったからです。それまでは、家族でする旅行に楽しいイメージってなかったんです。でも、旅先にあったキッズクラブは楽しく遊べて、しかも海外の子どももいたので初めて英語を使って会話するという経験もできました。ここに私の保育所経営の原点があります。

――それでホテルに就職をしたわけですね。

でも、こういうのって思うようにはいかないものですよね。インターン時にいたキッズクラブの部署にそのまま配属されたかったのですが、最初に入ったのがサーカスの部署で(笑)。私が社会人として初めてしたことって、空中ブランコで飛ぶことだったんです(笑)。たぶん、大学時代にダンスをやっていたから、「この子ならできるだろう」って思われたんだと思います。

世界各地を回って海外の子育て事情を知る

――(笑)。ちなみに上田さんは広く海外に関する知見を持っています。どこでその知恵を養ったのでしょうか。

海外に触れたのは高校生の時が最初です。叔母が住んでいるノースカロライナ州に、単身で旅に出ました。社会人になってからも、外国の文化に触れることは意識していましたね。私が就職したホテルは30カ国くらいの社員が働く国際性豊かな職場で、公用語が英語でした。なので、英語を鍛えるために、休み期間にカナダの小学校で教えるボランティアに行ったり、世界各地を旅しました。その中で、いろいろな国の子育て文化を知って、日本の子育ての「変わっているところ」もわかるようにもなっていったんです。

たとえば日本だと、ママにはママの役割があり、パパにはパパの役割があって、お互いが役割を超えて子育てに参加することはあまりないという考えがまだまだ根強いと思うんです。実際、私の父も洗い物などをまったくしない感じでしたから。ところが、たとえばカナダ人は役割なんてまったく気にせず、両親ともに「その時にできる人が、できることを、できる限りやる」ってスタンスでいるんですね。それを見た私は「なんで日本のママさんはこんなにやることを抱え込んでいるんだろう」という問題意識を強くしました。

また、多くの国々では、子育てにおいては子どもも保護者も対等な人間として見られます。「あなたは子どもだから」といった扱いなんて全然しません。もちろんパパもママも対等です。役割うんぬんも言わない。で、これは気づきなのですが、そういった環境で育った人って、どこか自信を持っているんですよね。ここに関しては特に、率直に「いいなあ」って思いました。

――上田さんご自身が子育て期間に入られたのは、いつ頃でしたか?

結婚したのが27歳の時です。そして29歳になった日に子どもが生まれました。その後、いろいろあって離婚して、ほぼ同時に起業もしました。

結婚、出産、退職、離婚。人生が濁流に

――それまで勤めていた仕事を辞められて、起業を。なぜそのような選択をされたのでしょう。

当時、私はホテル業からいくつかの職を経て、保育施設の施設長の仕事に従事していました。そんな最中、私が結婚し、産休・育休をとるようになった。ところがここで問題が起こります。私の子が待機児童になってしまったんです。保育園に入れない。入れるような保育園がなかったんです。これでは仕事に復帰できません。私としては、住む場所を変えたりして必死に復職を目指したんですけど、結局、念願叶わず、退職を余儀なくされました。しかも、先ほどもお伝えしたとおり、私は離婚も経験します。これによって、収入が断たれてしまった。お金がない。家もない。そんな中、私は思ったんです。「子どもが入れるような保育園がないのなら、つくってしまおう」って。

――それもまた大胆ですね。でも、すでに保育園などの立ち上げ事業には仕事で関わっていたのですから、ノウハウはあった?

いえ、実際にゼロから保育園をつくるとなると、知らないことだらけでした。ただ、「保育園はつくれる」という自信だけはあった。なので、両親に頼み込んで実家に住まわせてもらいながら借金をして、東奔西走しましたね。まだ娘が小さかった頃です。娘をおぶって施設や役所に出ていくわけです。で、「保育園をつくりたいんですけど」って言うという(笑)。私が無知すぎたからだと思いますが、窓口の人も最初は「は? はい……」という感じでした。でも一生懸命に調べて、「次は厚労省のどこどこに行ってください」といった自治体などの指示に従いながら情報収集を続けました。その果てに、やっと保育園ができそうだという見込みが立つようになります。とはいえ、今度は収支が成り立つだろうかという不安に襲われます。借金以外にはほとんど何もない身ですから、精神的にも相当に追い詰められました。

やっとのことで見つけた、保育園をつくれる物件

「ないなら、つくろう」で保育園を自ら設立

でも、最後は清水の舞台から飛び降りる感じで、「やっちゃえ」って、保育園設立に踏み切って。そうしたら、最初は案の定お金が回らず、ただただ出ていくお金が大きくて、戦々恐々としました。でも、しばらくするとお客さんが集まってくれるようになります。

――えっ。それは広告などを打ったのでしょうか。

広告はやっていません。ちょうどその頃、待機児童の問題が世間的にもクローズアップされていたんですね。実際に、子どもが待機児童になっていて悩んでいるという親御さんがたくさんいました。なので、私の保育園に預けてくれる人も次々と出てきてくれて。

ただ、私、自身の園だけが何となかればいいとは思えなかったんです。待機児童に悩む人は無数にいましたから。子どもを園に通わせられない友だちは、自分の保育園ができたあとでも身近にいるわけです。そこへの切実さの感度は、変わらない。そこで私は、区役所などに訴えました。待機児童の多さや、待機児童がいる家庭の切実さもそうです。保育園の現場の大変さもそうです。あるいは、たとえば保育園には国から認可されている「認可保育園」と「認可外保育園」があるのですが、家庭によっては認可保育園に預けたいという場合がある。ところが認可保育園は限られています。だから、「うちの園は認可外で、でも○○円払ってでも預けたいという親御さんがこんなにたくさんいるんです!」って言って、保育園の認可を自治体に交渉したりもしました。

保育園のためにほしかったテーブルやイスが手に入らず、友人たちと資材をカット

――すごい。自身の保育園だけでも大変なはずなのに、保育業界全体のことを考えて行動されている。

そんな大げさなものではないですけど、行動はしましたね。その上でありがたくも、自身の園も無事、3年後には黒字転換できました。保育園も、従業員が自分の子どもを預けながら働ける"事業所内保育所"のスタイルを取り、昔の私のようなスタッフが出ないようにしようという目標を実現しています。いまは経営している保育園も増え、事業をスケールできています。

ついに迎えた、保育園オープニング時の写真

大切にしている信念

――最後に、上田さんが大切にされている信念をお聞かせください。

実は、事業が落ち着いた時に母が他界したんです。ちょうど保育園が認可を受けた年でした。母は、父が起業した会社の手伝いをしたりして、自分がほんとうにやりたかったことはやれずに亡くなりました。正確に言うと、やりたいことはあったんですけど、やろうと決めていた年齢になる前に亡くなったという感じで。だから、「自分もいつ死ぬかわからない」という考えに敏感になりました。以前、イジメられていた時に、「何かアクションをとらないと、物事は前に進まない」ということを思い知りましたけど、母の死をきっかけに、その考えがもう一歩進みました。人間、いつ死ぬかわからないからこそ、「今すぐアクションをとろう」と。そのアクションは小さなことでもいいんです。夢に対してとても小さな一歩でもいい。とにかく、少しでもいいから日々アクションしていこうって。そのスモールステップも「夢への一歩には変わりはない」わけですから、私はそういう小さな歩みを大切にしています。強いていえば、それが信念です。

最初にお伝えしたとおり、私の夢は「個育て」で日本の子育てをアップデートすることです。それが最終的に日本を良くすることになればと願っています。いま展開している事業はすべてそこに紐づいているし、もっと言えば、これからは保育園を立ち上げた(る)人のバックアップもしていきたいと思っています。自身の経験が誰かの役に立つなら、還元していきたいです。そうやって「子どもが生(行)きたい場所」を一つ一つつくって、日本を良くするためのスモールステップを踏んでいく日々を生きると決めています。

[上田美雪さんが代表を務める会社のサイト&紹介動画]







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