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なぜギフトはめぐりめぐる連鎖になるのか|『GIFTに生きる』

前回は、本連載の主題「GIFTに生きる」について、石丸弘の話を軸に語り合った。ギフトに生きるとは「見返りを気にせずに誰かや社会のためになることをやり続けていくこと」を意味する。そして、ギフトを続けていけば、人から人へとめぐりめぐって、自分自身に不思議とギフトが返ってくることも確認した。今回は、そんなギフトの性質をさらに深堀りしていく。

「ギフトに生きる」につながる子育て

佐野 「ギフトに生きる」という生き方は、改めて考えてみてもなかなか生まれない発想ですし、そうそう徹し切れるものでもありません。石丸さんは昔から他人にギフトする、手渡すことができる子どもだったのでしょうか。石丸さんの生き方が生まれつきの才能なのか、それとも誰にでも再現可能な、後天的なものなのか知りたいです。

石丸 まあ、変わった子どもではありましたね(笑)。親の影響を多大に受けたのは確かです。僕が「やりたい」と言ったことはできる限り叶えてくれましたから。たとえば、バスに乗っている時に「荷台に乗りたい!」と僕がいうと、他のお客さんがいない隙に本当に荷台に乗せてくれたりしたんです。普通、乗せないですよ(笑)。また、電車に乗って森林公園に行って遊んだ帰りのことです。電車内から綺麗な河が見えたんです。親は疲労困憊だったと思うんですけど、僕が「あの河、行きたい!」と言ったら、わざわざ次の駅で降りて、乗り換えて戻って、河で遊ばせてくれた。これもなかなかできないですよね。でも、河原に行くと実際の水面はドロドロした感じで、それを見て僕は「もう、いいや、帰ろ」ってすぐ言うという(笑)。

正木 親はきっついですね(笑)。

石丸 でも、そうぼやいたら、親は嫌な顔一つせず「じゃ、帰ろ」と言ってくれた。そもそも、怒られた記憶がまずないですね。とにかく、いろいろなことを経験させてくれて。もちろん、いろいろやれるからこそ失敗も多くするんです。それも学びになりました。「何でもやらせてくれる自由さ」は、親から受けた最大のギフトです。そう育てられたから、今、常識にとらわれない発想も割とできているのかもしれません。親は平和活動家でもあるので、僕は僕なりにその背中を見て育って、人の役に立ちたいという意識が生まれました。小学生の頃から、「人に優しく生きよう」と決めて、それが今につながっています。

仏教の「縁起」思想に通じるギフトの"連環"

佐野 親の教育、大事ですね。ちなみに、今日もリアルタイムでギフトされていますか?

石丸 いま僕は実家にいるのですが、2部屋空いているので、昨日から泊まっている方がいらっしゃいます。「お金も気にせず、食料も冷蔵庫から出して好きに食べていいですよ」って言ってあります。ありがたいことに、自由に使わせてもらえる家が各地に何軒かあるんです。身近なところでいうと、コンビニで買い物をするときに募金をしています。めぐりめぐって誰かが豊かになってほしいと思って。あと、コンビニでは買い物をする際に手に取った商品に想像をめぐらせたりもしますね。

正木 想像?

石丸 たとえば「今ここでこのポテトを買えるのって、ギフトだなあ」とか。「じゃがりこ」みたいなポテトのお菓子だって、一から芋を育てて、棒状にして、油であげて味つけして、カップに詰めてフタして輸送して――という過程に思いを馳せると、それが百数十円で購入できるのって凄いじゃんってなるじゃないですか。しかもコンビニの店員さんがいるから、僕らは24時間、いつでもポテトが買えるわけですよね。そういう連鎖を思うと「ありがたい限り」と思いますね。仏教でいうと「縁」みたいな感じでしょうか。

正木 確かにそれは縁というか「縁起」や「空(くう)」に通じる思想ですね。仏教徒ティック・ナット・ハンがまさに想像力を用いて縁起を語っています――「詩人のあなたが詩を紙に書きつけるとき、空には雲が浮かんでいるでしょう。雲がなければ雨は降りません。雨が降らなければ木は育ちません。木がなければ紙はできない。また、太陽がなければ森は育ちません。木こりが存在しなければ森の木は切れないし、やはり木を材料とした紙は生まれせん。さらにその木こりは、日々のパンがなければ、小麦がなければ生きていけない。それに、親が存在しなければ、その木こりは生まれ得ない。これらが、詩を書きつける紙のなかにあるのです」(要旨)。ここで彼が言ったのが縁起のことなんです。ギフトの「めぐりめぐって」ではないですが、ものごとの"連環"みたいなものをティック・ナット・ハンは想像している。

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「いただきます」の一言にもさまざまな縁が

石丸 まさに、その"連環"を僕も考えます。家から外に出たらアスファルトがあって舗装されていますよね。僕らは整備された道路のおかげで歩きやすい仕方で最寄り駅まで行けるわけです。これなんかも、おそらく深夜の工事現場の方々がいらっしゃるから、その豊かさを享受できるわけでしょう。そう考えただけで感動です。

佐野 石丸さんは「いただきます」を言うときにも、そういった縁起的なものを意識されていますよね。目の前にある食事、テーブル、一緒に食べる友だち・家族、あるいは食卓の空間でさえも、当たり前に存在するのではないと。さまざまな連環の中で、さまざまな人とのかかわりがあってこそ、今ここにそれらが存在している、と考える。その想像が、ときには「木」や「雲」に及ぶこともあれば、ともすると「歴史」に思考がめぐることもある。

石丸 そうですね。お茶碗一つとっても、ゼロからイチへと「焼き物」を生み出した人がいて、何人もの職人の技の継承を経て、今ここにありますから。歴史があるんです。モノ、空間、時間、それぞれの軸で思いを馳せて、グッと感謝がこみあげたときに僕は「いただきます」を言います。するとやっぱり、ただ単純に食べるのとは違ってきます。まあ、感謝がこみあげない時もありますけど(笑)。

正木 石丸さんにもそういうことがあるんだ(笑)。

石丸 あります。でも、「いただきます」の時に感謝がわいてこないこともギフトだと僕は思ってるんです。それは、心に余裕がないことの現れかもしれないから。自分自身に何かが起きてるかも、と自己認知ができる。食事が与えてくれるこの気づきも、ギフトです。ちなみに、この鼎談も音声SNS「Clubhouse」を使ってやっていますよね。オーディエンスにいて聞いてくださっている方々は、楽しく喋っている僕らの話を聞いてギフトを受け取っていると思っているかもしれないけど、反対に、話し手である僕らもギフトを受け取っているんです。「聞いてもらっている」という形で。双方向的にギフトが行き交っているんですよ。

会社を退職する時にもギフトはできる

正木 佐野さんは「退職学™️」を研究されていますが、退職時にできるギフトってありますでしょうか。退職というと、会社によっては「静かに去る」みたいな文化が共有されていたり、ネガティブなイメージが持たれがちですが、退職はギフトのチャンスでもあると思うんですよね。

佐野 おっしゃる通りです。まずは「引き継ぎ」を丁寧にやることですよね。基本の「き」です。いきなり夢のない話みたいになっちゃいますけど、引き継ぎはギフトになり得ます。属人的になっていた仕事や、自分がやってうまくいった業務の方法を体系立てて残したり、お客さんと作ってきた「良好な関係」を担当者などに引き継いだりする。そのときに、会社の人たちが「あいつは会社を辞めるけど、めちゃくちゃ頑張ってくれたよね」と思ってくれたら、それってギフトになっていると思うんです。

正木 確かに、その行動がお金に換算されないような「同僚への愛情」だったり「感謝」だったら、引き継ぎもギフトですね。退職金みたいにお金でスパッと縁が切れるようなやりとりは、マルセル・モースが示すような人類学では、贈与でもギフトでもなく「交換」と呼ばれます。もちろん交換も大事ですが、それだけだと味気ない。

佐野 もしできるなら、「社内副業」も存分にしてもらいたいです。社内副業とは、「本来からすれば担当外になるはずの仕事」のことです。辞めるとなると、担当外の仕事っておざなりになりがちなんです。でも、社内副業でやっていることは、大抵、その人が得意なことだったり、「その人にしかできないこと」であることが多い。社内副業で、退職時に「会社がこれからも成長していける種(たね)・機能・システム」を残せたら、これは喜ばれます。

時間差のある贈与はより良いギフトになりやすい

石丸 人材がより活きる仕組みを残すのも大事ですよね。以前、退職する際に、まさに3人分の仕事を1人でこなせるような「システム」を作って残して辞めたんですよ。その会社は当時、離職率が高くて、人が不足していたんです。僕が辞めればさらに業務のひっ迫に拍車がかかるのは明らかでした。だから業務を3倍速くらいでできるようシステム化・効率化したんです。僕の退職後もそのシステムは使われているみたいで、一つ、ギフトができたかなと思っています。

佐野 「退職学™️」的にも凄く大事な行為ですね。退職において大切なのは「後腐れなく辞める」ことではないんです。自分がいなくなっても組織が回るようにすること、そんな仕組み等を残し切って去るのが一番です。大変だなと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、そんな事例は少なからずあって、そういう人たちはギフトに生きてるなって思います。

正木 それは、贈与の重要なポイントでもあります。贈与物を手放す人が贈与物を手放した瞬間と、受け取り手がそれを受け取る瞬間に「時差」があった方が、本来の贈与の在り方になるんです。渡す瞬間と受け取る瞬間が同じタイミングになってまうと、ギフトさが減るというか。コンビニで商品を買う時に、レジでピッとしてもらってお金を渡して「やりとり終了」となってしまうと、そこでやりとりは本当に断絶してしまう。お金が介在しなくても、贈与と返礼が同時であれば、やりとりはそれで終わりがちです。そこから贈与の連鎖や連環は生まれない。「時差」って、あった方がいいんです。この意味からしても、「自分がいなくなっても組織が回るようにすること」は退職の作法としてきわめて贈与的です。

佐野 辞める人の労働者としての真価って、会社を辞めたあとにわかることがあるんですよね。その人がやっていたことが独りよがりだったら退職後にはもう人間関係は――極端な話ですけれど――"断絶"してしまうかもしれない。でも、ギフトになっていたら断絶とは違う形になるでしょう。市場価値を高めることも重要ですが、人間としての価値を高めることの方がビジネスにおいてもどこまでも大事なんです。それは職務経歴書には載らないことかもしれない。でも、人間の真価によって市場をハックしている人っていっぱいいて、やはりうまく行っているんです。あと、これはベタかもですが、退職時に「これからも宜しくお願いします」って手紙を残していくといいですよ。しかも手書きで書いて、念込めて。社内には「本当はいろいろ話したかったなあ。辞めちゃうのかー」と密かに思ってくれている「隠れた両想いの人」がいるはずなんで、そういう人が退職時に明らかになって、その後もつながっていけると、人間関係が豊かになります。

ギフトと「労働価値説」

佐野 僕の友人の話ですけど、いい辞め方をしたからか、以前の職場から毎年、野菜が送られてくるっていう例があります(笑)。そういうギフトのし合いもあるんだなと驚きました。

正木 野菜!

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佐野 その友人、めちゃくちゃ愛されていますよね。

石丸 しかも、そうやって贈ってくれた野菜って、そこらへんのスーパーで買う野菜よりも大事に食べるじゃないですか。贈り主の思いが伝わってくる感じがするから。

佐野 その彼も言ってました。「レタスを自分で買っていた時は、よく腐らせてしまっていたけど、贈ってもらったレタスは絶対に腐らせない」って。

正木 そこに思いが込められているし、野菜を選んで、買って、運んで、箱詰めしてってプロセスを考えたら、付加価値も感じますもんね。アダム・スミスの労働価値説じゃないですけど、野菜の箱詰めを完了するまでに支払われた時間や労力、代価を思うと、受け取り手はそれをプラスαの価値(=富)に感じて、ありがたさの感覚も倍加するんです。先ほど佐野さんが「手紙は手書きで」と仰っていましたけど、手書きで書くという時間、労力、そして字体の肉筆感が、ありがたみを付加してくれる。これはギフトにおいても大切な視点です。

佐野 バレンタインの当日に、「あ、今日バレンタインだ!」って思い出して、パッと買ったチョコを手渡されるより、何日も前から探して歩いて、時間をかけて考え抜いて用意してくれたチョコを手渡される方が断然うれしいですよね。そこに労働価値を感じるから、嬉しさが増すというか。

ギフトが人から人へ伝播するとき

石丸 ギフトは、人の心を動かしますよね。以前シェアハウスで暮らしていたときに、一人の友だちが「蚊に刺されて、かゆい」って言いだしたんです。で、僕は「そっかそっか」って言いつつ、すぐできそうなことを考えて、薬局に電話をしまくったんです。「かゆみ止めありますか」って。なのに意外と売ってなくて。で、しょんぼりしてたら、もう一人いた子がいきなり部屋を抜けて、お灸を持って帰って来たんですよ。「これ効くぞ」って。それ見て、僕が「かっこいいじゃねえかよ。俺なんか何もできなかったのに」って言ったら、彼は「それは違う」って言うんですね。なぜかというと、「俺が何かしたいって思ったのは、ひろくん(=石丸)が何かしようと必死になっている姿を見たからなんだ」と。「これは」って思いましたね。誰かがギフトしようとする姿って、他の人にもギフトを促すんだなって。

佐野 「手持ちのものででも何でもいいから、何かできないかな」ってところから瞬間的に行動に移す石丸さんの姿って、素敵だなって思います。変に構えていないし、「ギフトするぞ」といった気負いもない。だからすぐ動ける。これってビジネス書の習慣術で出てくる「続く習慣」の構造そのものです。

正木 ギフトする喜びに石丸さんご自身がしびれているのがいいですよね。哲学者プラトンの『メノン』という本に、近づくものをしびれさせるシビレエイの話がでてきます。それが象徴している構造は、たとえば、良い習慣にしろ悪い習慣にしろ、理屈とかではなく、本人の「しびれ」が相手にしびれとして伝わるようにして、「腑に落ちる感じ」として伝播していくということです。哲学でいうところの「ミメーシス」、つまり「感染的模倣」が起こって、ギフトが新たなギフトを生み出していく。大切なのは、ギフトする本人が楽しんでいることですよね。本人が楽しんでしびれているから、ギフト性みたいなものが他の人にも「楽しみ」として伝わる。楽しいことって、やっぱり訴求力があります。

[参考文献]


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