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[書評]インスタントな知識が求められる時代に立ち止まって考えることを勧める勇気

氏家法雄さんの『暮らしを哲学する』(明日香出版社)を読んだ。わかりやすく素敵で、得心のいく話題も多かったので、書評を残しておきたい。

あなたはインスタントなモノやコトがお好み?

就職戦線では即戦力が求められている。政治では間近な変革が期待されている。教育では「育つのを待つ」営みが蔑(ないがし)ろにされている。あるいは何の役に立つかがわからないようにみえる学問より速攻性のある実学が尊重されている。と、ちょっと考えるだけでも、何だか世界ぜんたいがスピードに急(せ)き立てられているかのようだと感じる。生産性向上。効率化。ファスト化。インスタントな知や営みが大事にされる意味は、ビジネスのど真ん中にいる私にもよくわかる。一方で即席的な知や営為が人間を「危うい方向」に差し向けてしまうことも歴史は教えてくれている。20世紀後半は、それこそヒトラーのホロコーストに象徴されるような全体主義等の反省に精を出しまくった世紀だけれど、根っこにはインスタントを求める人々の気風があった。つたないながらも私のツイートを紹介する。

ヒトラーはインスタントを求める気風が生んだ

人は「他人任せ」「他責的な姿勢」になっている時に、他人に対して「速くソリューションを出せよ」と迫るようにできている。あたかもレストランで注文の品がなかなか出てこなかった時に、ホールスタッフに向かって「あのさ、まだ注文の飯が来ないんだけど!」と怒るように。そんな「任せてブーたれる」(社会学者・宮台真司)大衆が即効性のあるモノやコトを手にすると、途端にそれら「インスタントさ」にかぶれて、人々は即効性あるモノ・コトを提供してくれる人物に従順になる。その人物はカリスマに祭り上げられるかもしれない。それがやがては「カリスマに任せて何とかしてもらおう」という大衆の発想に行きつき、人々から主体性を奪い、カリスマをカリスマと見ない人を排除するところにまで至る。ヒトラーは、そうして生まれた。その病原の一つが「今日まさに」「今すぐ」というインスタントを求める気風だった。

大切なのは、鋭敏な感性で時代を観じとり、「ちょっと待って」と立ち止まり、思考できる能力である。「自分自身で考える」能力である。氏家さんの新著は、そんな「立ち止まり」の慎ましやかで麗しい価値を教えてくれる。そして、立ち止まるためのヒントやフックが、暮らしの、日常のそこかしこにあることを教えてくれる。

「ちょっとしたことに違和感を持つこと、あるいは違和感を奮い起こさせていくこと、その手続きとしての『立ち止まり』を意識的に実践することが僕は大切ではないかと考えています。現実世界の騒音というものは、『歩調がそれにあってスタスタとどこかに向かって早足で突進してゆくような感じになる。逆むきに歩いてみても同じことで、いつのまにか自分の歩調が行進曲とかさなりあってしまう』(『永遠の詩人哲学者 吉満義彦』より)ものですから、立ち止まって、立ち位置を確認することは大切です」(『暮らしを哲学する』92㌻、(  )は引用者)

「自分自身で考える」の始まり

では、自分自身で考えて、ふっと立ち止まるにはどうしたらいいのだろうか。何を指して「自分自身で考える」と呼ぶのだろうか。もちろん、考える材料となる知識は、多くの場合、先人からの"借り物"であることが多い。しかし、そこにあなたの五感から得られる情報や過去の経験などを持ち出して、混ぜ合わせて、発酵させればどうなるか。知識は、あなたの血肉になる。知識は、あなたの脳のなかで"調理可能な"物事になる。その知識をもって思索して言動してアウトプットすれば、それは立派な「知恵」になる。このプロセスをもって「えっと、それって、でも、どういうことだろう?」と立ち止まれるようになるなら、あなたはインスタントにやられて集団で危うくなる組織員の成員にはならないで済むかもしれない。もしくは、既存の知識の枠組みを壊してより良い価値を生み出すようなイノベーティブなことがらを見逃さずに済むかもしれない。

氏家さんは、本書の趣旨について以下のように記している。

「一口に自分自身で考えるといっても、どのような手続きが必要になるのか、そこが難問です。ただ考えろと言っても、出てくるのは妄想の類になってしまいますよね。大切な手続きを少々紹介しましょう。まずは、自分自身にとって最も身近である自分自身の暮らしに注目してみることです。メーテルリンクの青い鳥ではありませんが、どこか別の世界に素晴らしいものが実在するわけではありません。暮らしをよくしようと思うならば、徹底的に自分自身に接近するほかありません。しかし、あえて注目してみると、そこにはこれまで気づかなかったことや見落としていたことがたくさんあるはずです。そのことに驚いてみるのも大切です」(同書5㌻)
「浮力の原理で名高いアルキメデスは、町の共同浴場の湯舟に入ったとき、『アルキメデスの原理』を発見したといいます。発見に大喜びしたアルキメデスは、『エウレカ!(わかったぞ!)』と叫びながら、素っ裸で家まで帰ったといいますが、そこは読者の皆さまの想像のご自由ということで」(同書6㌻)

「暮らしを哲学する」。例えばこんなふうに

「自分自身で考える」上で大切になってくるのが「知ったつもり」にならないことだ。たとえば、田植えを想像してほしい。田植えと聞いて具体的な時期を想像できる人がどれだけいるだろうか。田植えといえば"何となく"暖かい(暖かくなる)時期にして……というくらいの認識はあるかもしれない。だが、じっさいの田植えは想像以上に多彩である。氏家さんは大学の研究職を辞して、現在は田園風景のなかをロードバイクで走って(たぶん)"通勤"しているが、彼はそうなってから田植えの「ほんとう」に気づいたという。

「田植えの時期といえば、いったいいつ頃でしょうか?」「僕は讃岐で生活しておりますが、早いところですと、田植えは四月半ばから始まり、遅いところですと、七月の中旬になってからようやくという田圃も見られます。当然、成長のスピードが異なりますので、地域によって刈り取りの時期も数ヶ月単位で異なります」「以前ですと、田植えなんて一瞬で終わってしまうものと、中途半端に理解していました。しかし、あらためて、立ち止まって考えてみると、些細なことかもしれませんが、発見や新しい理解が立ち上がってくることに驚いています」(同書89㌻)

この文章を読むまで、私もどこかで田植えについては「知っている」と思っていた(傲慢)。しかし、それはあくまでも知っている「つもり」なのであって、真には知っていなかったのだ。というか、現実の田植えに携わっている人からすれば「知っているつもり」は「知らない」にほぼ等しいのである。当然ながら、私の知識では田植えも何もできない。ただただ土地の前で茫然とするだけで終わるだろう。それくらい、私は、否、もっと言えば「私たち」は、「知ったつもりになっていること」をあたかも「知っていること」であるかのように錯覚して、深く考えずに安心している。一事が万事、ほとんどのことについて実はこうであることが多いのではないか。

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蛇口を「閉める」は時計回り? それとも逆?

「知っているつもり」の段階にある生煮えの知識は怖い。「使えない」から怖いという部分もある。しかし、もっと怖いのは、「知っているつもり」の頼りなさを人はどこかで知っているので、その知識をいざ本格的に現実に適用しようとなった時に、「ほんとうにわかっている(っぽい)人」の言うことに従順になって、知識の運用をその人に全任してしまう点だ。これは先の「(カリスマに)任せてブーたれる」構造と同じである。知識は、しっかりと現実に根ざしたもので蓄積すべきだと思う。

氏家さんはこうも書いている。蛇口の開け閉めについてだ。

「たとえば、水道の蛇口というものはデフォルトで閉まっているとすれば、とにかく逆に回してやればよいという寸法ですよね。これまでは自分自身も考えることなく適当に蛇口を閉めたり開けたりしていました」「当初はとにかく、デフォルトの状態の逆で回す、というやり方でやっていたのですが、『ええと、閉めたっけ? 開けたっけ?』となりますと、とにかく自信がありません」(同書97㌻)

こういうことが私にもある。蛇口を開けようとして、反対に回して、逆に(さらに)閉めてしまうとか――。ほかにも、たとえばわが家の本棚には耐震装備がついているのだが、固定具のネジが閉まっているかを定期的に点検している。その"定期検査"の際にドライバーを持ってネジを回す時に、毎回思うのである。「あれ? どっちに回すのが『閉める』だっけ?」と。おそらく氏家さんにも、この「知っているようで、知らなかった」事態が訪れたのだろう。氏家さんは、上記文の直後にこうつけ加えている。

「ある日、上司に聞いてみると(中略)『基本的には時計回りが「閉める」操作というのがほとんど』だという指摘がありました。確かにそうなんですよね。40年以上生きてきましたが、この原理、あるいは現実を直視するのは初めての経験でした」(同㌻)

このように、「知っているようで、知らない」は生活のあちこちにある。多くの人にとって、じつは暮らしは未知に満ちている。ところが私たちは、そんな未知性をほとんど意識することもなく生きている。ふだんはそれでいいのかもしれない。しかし、いざ、生活が切迫して、しかもインスタントな成果をせっつかれるようになったら――? あなたは、へたな詐欺師にさえ騙されるような、全体主義のとりこになるような没個人になるかもしれない。だからこそ、暮らしの、日常のなかで考えることが大事なのである。

本書は、生活のなかに「立ち止まって思考できる」チャンスがたくさんあることを教えてくれる。また、そんなチャンスを自らつくる方法を教えてくれる。個人的には本書の"白眉"は「第4章 暮らしの中で学んでみる」(同250~311㌻)にあると思っているが、ここでは触れない。そこは本書を購入して、ご自身の耳目で確認してほしい。「知ったつもり」にならないように注意していただきながら――。


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