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[書評]いま・ここを丁寧に生きる時に支えになるのは動物性を含み込んだ人間

作家ボーヴォワールは「ひとは女に生まれない、女になる」(『第二の性』新潮社、1997)という言葉を残した。「女」を形づくるもののメインは、文化などによって決められた後天的な「女らしさ」であって、生体的な「性」がメインではない。人は、生まれて幾年もかけて「女らしさ」を教わり、そして“後づけ”で女になるというのだ。

これは人間にもそのままあてはまる。「(類としての)ヒトは人間には生まれない、人間になるのだ」と。生物としての「ヒト」は人間としての社会的振る舞いや作法を教わることで初めて“人間”になるのであって、教わることがなければヒトは、極言すれば「動物のまま」だ。だが、この事実はこれまであまり視界に入らないように外側へ押しやられてきた(そんなことはない! という人には「視界への入れ方が足りなかったと言おう)。

平和とは自由とは何か 国家とは家族とは何か

平和、正義、善――。人類がずっと、ずっと、求めてきたものたち。しかしこれらは時に切ないくらいに弱く、存在感の弱い観念としてあった。しかし一方で、現在も商売道具として強烈な存在感を放ちながら利用すらされている。Mr.Childrenの「1999年、夏、沖縄」という曲に、そんな「やわな」ものたちへのささやかな抵抗が描かれている。

戦後の日本を支えた物の正体が
何となく透けて見えるこの頃は
平和とは自由とは何か 国家とは家族とは何か
柄にもなく考えたりもしています

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国際政治学者から社会学者、哲学者まで、さまざまな人たちが専門的にこれらを希求してきたけれど、未だ答えは出ていない。あけすけなく言えば、たぶん、今後も答えは出ないだろう。だが、神学者パウル・ティリッヒの「勇気とは、にもかかわらず、自分自身を肯定することである」(『生きる勇気』平凡社ライブラリー)という言葉のごとく、それでも「求め続けること自体に意味がある」と言わんばかりに、人間は平和への試行錯誤を続けているし、それには価値があるとも信じている。僕も、その末席に連なっているつもりだ。

昨日、東浩紀さんの『新対話篇』を読んだ。東さんは、僕が興味深く読み続けている言葉の編み手のひとりである。一番好きなのは、『存在論的、郵便的』(新潮社、1998)。もちろん『動物化するポストモダン』も『一般意思2.0』も『弱いつながり』も『観光客の哲学』も、おもしろく読んだ。けれど、『存在論的、郵便的』が僕にとっては最大に刺激を受けた作品だった。

だが、今回『新対話篇』を読んで、その他の彼の全著作が、急に活き活きと僕の中にストリーミングされるようになった。キーになったのは次の句だ。少し難しい表現だが、吟味して頂けたら嬉しい。

人間を人間として突き詰めて動物に戻る回路とはべつに、動物を通って実現可能な人間性もあるのではないか。(加藤典洋氏との対談「文学と政治のあいだで」146頁)

“いかにも「人間らしい」知見”で編まれた人間性

先ほど、平和、自由、国家、家族という単語がミスチルの歌詞に出てきた。これらについて僕らは、今までどのように考えてきただろうか。言語を使って理性的に、合理的に、演繹法と帰納法を混ぜて、情動や環境との関係性を織り込みながら、「きっとみんなもこうするはず」といった推論を重ね、いわゆる「普遍的な」ものを考え出して、それを「平和とは?」「自由とは?」の答えにあてようとしてきたと思う。

例えば「人は苦しみを避ける反面、あえて苦しみを求める」「組織の一つの歯車として、大虐殺の稟議書にハンコを押せる」「心理的に安心だと思われたチームほど生産性が高い」「慈善的な気持ちで支援している人に『報酬』を与えようとすると拒否する」といった要素を組み合わせて、平和や自由を考えてきた。

これらは端的にいえば「とても人間的な」ものである。
いかにも「人間らしい」知見の集まりである。
そしてそれらが人間の普遍的なものとして扱われた。

僕らは、その「人間ならきっと~」という推論を基本とし、知を積み重ね、進歩してきた。と、いうふうに思ってきた。哲学者カントが理性を取りだし、その限界を、用法を指し示すことで理性への信頼を強めたように。また哲学者ヘーゲルが、動物から人間へ、ヒトは進歩していくと信じたように。

だが、20世紀は、人間理性が極まった一つの結果として、2度の世界大戦をはじめ、大殺戮時代を生み出してしまった。理性は人間的なものの代表みたいなものだけれど、それが人間性への信頼を墜落させた。人間らしさが人間を裏切ったのだ。

「僕らは動物」という事実をネグレクトしてきた

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哲学者テオドール・アドルノは「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(『プリズメン』ちくま学芸文庫、1996)と書いた。もはや人間的なるものを手放しで信頼することはできないといった口吻で、だ。結局わかったのは

愛だ恋だとぬかしたって
所詮は僕等アニマルなんです
  (Mr.Children「ニシヘヒガシヘ」)

ということだった。

しかし人類は、20世紀を経て、憧憬された21世紀を20年間暮らしてきても、まだ「人間性」「人間的なもの」に過剰な「良さ」という幻想を抱き続けている。否、正確にいえば「『本来は動物なのだ』ということをしっかり確かめもせずに、人間的なものを素晴らしいと思う作法を継承し続けている」。

例えば、これは極端な物言いだけれど、20世紀のジェノサイドは、人間の動物的な本能が野蛮性として現われたものではないのか? と問うことができる。それを“人間”の悪しき習性としてだけ総括して、やり過ごしてしまって本当にいいのだろうか。平和や自由といった人間の観念を普遍的に仕上げる以前に、ヒトは普遍的に、本然的に「動物」ではないか。それを無視していいのか? そう問われれば、僕は心底ダメだと思う。

動物を通って実現可能な人間性

先に引用した東浩紀さんの文の冒頭「人間を人間として突き詰めて」というのは、まさに「人間性へのこだわりと追求のこと」を言っている。彼は、それでは足りないだろうと言う。「ヒトは人間である前に動物である」という確かめを行い、ヒトの動物的な側面を自覚し、つぶさに見て、今一度「人間」を考えようと提案している。そもそも、人間である「前に」というこの表現が、すでに人間を標準にしている。そういった思考の型を打ち破ったほうが「普遍性」との向き合い方として誠実なのではないか? 彼はそう呼びかける。

また、同じ句の末尾、「動物を通って実現可能な人間性もあるのではないか」は

「人間性」と「動物性」

という対立軸を可能な限り使わない、動物性と人間性が連続してないまぜになったものを基礎とした、新たな「人間性」の求めを提案している。

動物性と聞くと、僕は「豚のPちゃん」を思い出す。小学生のある学級で、豚を「Pちゃん」と名づけ、育てて、子供たちの愛情がわききったところでその豚を豚肉として調理し、食べるという実話だ(『豚のPちゃんと32人の小学生』ミネルヴァ書房、2003)。

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この“実験”は賛否の大激戦を生んだけれど、問いかけているのは、あくまで食物連鎖の中から出ることのできない人間の「ヒトさ」、動物性だった。というより、今80億人になろうとしている人類は皆、Pちゃんという固有名を排除した動物を家畜化し、殺しまくり食いまくって生きている。その恩恵にあやかる構造のすさまじさは、YouTubeで家畜の屠殺シーンを見れば、十分実感できる(今もそういった動画があるのかは知らない)。

よく考えれば、ファーストフード店の狭いカウンター席にひしめきあいながら、数十センチ四方のトレーの上でバーガーをむさぼる人間の一列は、さながら養鶏場でエサを食べる鶏のようでもある。

人間はまぎれもなく動物である。

東浩紀さんは、そういった動物的人間が、普遍的な平和や自由をもう一度目指そうとするなら、動物性にももっと視線を向けてほしいと言っている。

「いま・ここ」を丁寧に生きる

以前、僕はこんなツイートをした。

これは僕の率直な感懐だ。僕は「いま・ここ」を丁寧に生きることを自身の信念としている。

Mr.Childrenの「タガタメ」という曲の以下の詞は、それを表象していると僕は思う。

子供らを被害者に 加害者にもせずに
この街で暮らすため まず何をすべきだろう?
出来ることと言えば 涙を流し 瞼を腫らし 祈るほかにないのか?
かろうじて出来ることは 相変わらず 性懲りもなく 愛すこと以外にない

いま愛し、いま泣き、いま祈る(しかないのか?)――。この「いま・ここ」は、実は、ほとんどの動物がそもそも本能的につかんで生きている時間だ。いま食べ、いま寝て、いま生殖し、いま新陳代謝している。いま走り、いま逃げ、いま威嚇し、いま死ぬ――。この意味において動物は、上記ツイートの僕の考え方の先駆的存在だ。

でも「いま・ここ」でしか通用しない思想ではダメ

繰り返すけれど、僕は「いま・ここ」を丁寧に生きることを信念としている。うまくいかないことも多いが、これからもこれは大切にしたい。

ところが、「いま・ここ」を丁寧に生きる時に判断の助けになる思想は、実は「いま・ここ」でしか通用しないものではダメだという事実がある。「いま・ここ」でしか通用しない正しさを振りかざせば、例えば昨今のコロナ禍の“自粛警察”のような、固い、ご都合主義的なエゴがあらわになる。今だけの正義は基本、普遍的なものとイコールにならない。だからそこは「普遍性」を目指さなければならない。

いま・ここを丁寧に生きるときに助けになるものは
いま・ここでしか通用しないものではダメなのだ。

だが、普遍的なものは、万人に通じさせる形で描こうとすると突然、無難で、体温の感じられないものになる。無理くり普遍に触れようとしながら編み出す言葉や行動は、悲しいかな、必ず“誤配”をも生む(「誤配」の意味は『新対話篇』を参照されたい)。誰かを愛した時の切ない情を十二分に表現することは、私たちには原理的にできないし、そのまま相手に伝わるということはない。普遍的な愛を語ろうとすると陳腐になるし、それを聞く相手も違和感を抱く。

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かつて恋文を書いた男は

どんな言葉を選んでも どこか嘘っぽいんだ
左脳に書いた手紙 ぐちゃぐちゃに丸めて捨てる
心の声は君に届くのかな?
        (Mr.Children「しるし」)

と思うのだ。「嘘っぽい」という感じは、誤配を予感するからこそ抱く気持ちである。一方、相手=君はそれにこう応じる。

「半信半疑=傷つかないための予防線」を
今、微妙なニュアンスで
君は示そうとしている        (同)

これは言葉にならない思いの交換とズレを美しく表現した詩だ。すべてが予定調和的であるものが「人工」だとしたら、上記は「自然」な思いのやりとりを表わしている。適度に挟まるズレ、誤配を丁寧になでながら。

普遍的なものを目指す時、そこには常に誤配が生まれる。むしろ普遍的な観念を適用しようとするほどに、「それ、僕には違う感じがする」という誤配感を時に生んでしまう。東浩紀さんはその誤配やズレこそが「文学的」や「哲学的」と呼ばれる感覚を発生させ、むしろ

文学や哲学という実態があるのではなくて、そのような「文学的」「哲学的」なズレ、ぼくの言葉では「誤配」としてしか存在しない。(國分功一郎氏との対談「正義は余剰から生まれる」193頁)

とすら言う。

繰り返し述べよう。

いま・ここを丁寧に生きるときに助けになるものは
いま・ここでしか通用しないものではダメなのだ。

このジレンマを克服する道筋として、僕も東さんのように「動物を通って実現可能な人間性」を求めていきたい。微力ながら。

「闇の中を歩み通す時、助けになるものは、橋でも翼でもなく、友の足音である」(『ヴァルター・ベンヤミン著作集14』晶文社、1975)という哲学者ベンヤミンの告白を借りて、僕自身を「闇の中を歩み通す時、助けになるものは、自らの動物さを生きる人間の足音だ」と勇気づけつつ、求めたい。

以上、『新対話篇』を読んで連想したことでした。
長文お読み頂きありがとうございました。


※人間の動物性を確認しつつ今できることを提示しているのが以下


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