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愛とは骨折のことである。

愛とは何だろう。とらえどころがあるようで、ない。存在しているようでいて、でも、憎しみや裏切りに包まれた時、愛は存在しないようにも思う。

きのうライブに行った。東京・赤坂のネオンまたたく街なかにある雑居ビル3階のライブハウス。唄いびとは唄っていた。なぜ海は青いのか。ひとはそのワケも知らない。なのに愛については、深く考えずにわかったようにしている、と。

アウグスティヌスがむかし言ったことを思い出す。「時間とは何か。そう問われなければ、私はそれを知っている。でも、時間について説明しようとすると、途端にわからなくなる」

愛も、同じだ。

僕が誰かと愛し合っている時、愛はどこにあるのだろうか。僕とそのひとのあいだに、愛は存在しているだろうか。たとえば二人がハグをしたら、互いが触れ合うことになる。その接触面を、僕らは愛と呼ぶだろうか。たとえば僕が大切な記念日を覚えていて、相手にサプライズのプレゼントをしたとしたら、その瞬間を僕らは愛と呼ぶだろうか。

唄いびとは、愛を唄う。

おそらく愛は、検索窓にフレーズを叩きこんでも、わからない。「愛とは」なんて言葉でググっても、すぐにトートロジーにハマり込んで、説明できなくなる。そしてなぜか僕は、「愛とは」なんて検索している自分に、ちょっとしたおかしさを感じるようになる。

たぶん、愛は比喩で語るしかないのだと思う。あたかも水をすくった手指のあいだから、必ず水がこぼれ落ちてしまうように、愛の意味も、必ずさらさらとこぼれ落ちてしまう。それこそ、万言を尽くしたとしても、とびきりの曲に乗せたとしても、語り得なさにもだえるしかない。そういう運命にあるのが、愛を語り、愛を唄う営みなのだと思う。

ライブの前に、友人が言っていた。「スタジオジブリの『君たちはどう生きるか』、すごく感動するよね!」。この時に放たれた「すごく感動した!」の「すごさ」を僕らはどうやって説明するだろうか。映画の作劇法に、絵の美しさに、感動の解を求めるかもしれない。でもその語りは、「何に」感動したかは説明しても、感動そのものの「感じ」の「すごさ」は説明しない。感動の強度を「すごい」以外の言葉で、「強い」「深い」といった形容詞以外の言葉で説明するのはとても難しい。

愛と同じだ。

近代以降、こういった感動的な刺激の強さは、「エネルギーの比喩」で人々に理解されるようになった。そう述べたのはトリスタン・ガルシアである。

意味はこうだ。

たとえば、きのう僕は雑居ビル3階にいた。地上3階である。地表からの高さは、ざっと6メートル。もし仮に、ひとが6メートルの高さから落下したとしたらどうなるか。唄いびとの唄を聴いている僕の周囲の建物が、仮にぱっと消えて、僕が地面に向けて落下したとしたら? 無防備だったぼくは、たぶん骨折する(骨折で済む?)。

なぜ、そうなるか。物理学的な言い方をすれば、それは、僕が「位置エネルギー」をたくわえているからだということになる。すべてのものは見かけ上、何ごともないように見えて、実は今いる場所の高度に応じてエネルギーをたくわえている。崖の上にいればその崖の高さに応じて、そのひとは位置エネルギーをたくわえている。そしてその位置エネルギーは、落下などの現象にともなって、それをたくわえている人間自身に「はたらき」をもたらす。骨折といった結果として現れる。

この位置エネルギーがおもしろいのは、それが落下などを経ない限り、決して目には見えないということだ。雑居ビル3階にいて、イスに座って唄を聴いて体を揺らしている僕が、自身を骨折させるほどの位置エネルギーをたくわえているとは、まさか誰も思わない。なのに、どうせ目には見えなくても、位置エネルギーは確かにたくわえられている。

愛は、これに似ている。

僕が街角で愛するひとを待っている。傍目から見て、その僕が愛をたくわえているとは、まわりの人はよもや思わない。でも、待ちに待った果てに僕が愛するひとを見つけ出し、走り寄ってハグをしたらどうか。まわりの人にも、それが愛の現れだと理解されるかもしれない。あるいはサプライズの贈り物をして、愛するひとが涙にぬれながら笑顔になったのを見た時、周囲のひとも、それを愛の現れだと思うかもしれない。

少なくとも僕と愛するひとの二人は、互いに愛を感じるだろう。心のかたちが心地よく変わっていく、その差分に温もりを感じるだろう。僕を骨折させるほどのエネルギーによってかたちを変えた互いの心は、陰陽の勾玉のように、ぴたりと居場所を共有するだろう。

エネルギーは目に見えない。
でも、確かにそれはたくわえられている。
そしてそのエネルギーは、雑居ビル3階の床から地表へ、という高さの差分を埋めるように落下することによって、骨折というかたちで露わになる。

愛も目に見えない。
でも、確かにそれはたくわえられている。
そしてその愛は、「あの記念日のこと、忘れちゃったのかな……」とあきらめかけているパートナーの気持ちを、サプライズによって裏切るというかたちで露わになる。

愛し合っているひと同士のあいだにおいて。

愛は説明できなくても、しめすことはできる。
表現することはできる。
ハグする前の、僕の待ちぼうけの気持ち。ハグされる前の「待たせちゃってるよね……」というパートナーの焦る気持ち。それらの感情と、ハグし合った瞬間の満たされた気持ちの差分が生まれることによって、愛は露わになる。

愛は説明できないし、位置エネルギーのように見かけ上それが存在しているようにも感じられない。それはつまり、愛には、示さないと「わからない」「伝わらない」側面があるということだ。だから僕は、愛を示そうと思う。「察してくれよ」の態度に、居直ることなく、愛を示すことによって、大切なひとと愛し合おうと思う。

愛は、現れ。
それは、エネルギーが働きかけた結果。
それは、骨折である。

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