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[質問箱]祈りって何でしょうか? 正木さんは祈りは叶うと思いますか?

ご質問から察するに、質問者さまは何かしらの信仰をお持ちでしょうか。

祈りは、欲望の現われです。態度です。やむにやまれぬ思いが、祈りとして出るのです。サッカーの国際試合でPKの時に観客席で手を合わせて祈る人をよく見かけますが、あれが祈りです。切迫感に後押しされる、感情の発露です。これは、宗教の祈りにも通じます。ザ・グロットのマリア像に向かって「お母さんを助けて!」と命乞いした幼な子の祈りも、隠れキリシタンやガルペが落命していく中で葛藤したロドリゴの祈りも、祈りの対象こそあれど、切迫感から発しているという意味で、観客者の祈りと同じです。

「祈りは叶うか?」と問われれば、上記サッカーのようなシチュエーションではどうでしょう。叶うと思いますか? いえ、そもそもそれは、言い方がおかしいと僕は思います。たまたまゴールが決まったらその事象を「祈りが叶った」と呼ぶ。ボールがゴールから外れれば、それを「叶わなかった」と呼ぶ。そんな感じでしょう。あなたの祈りとは違う文脈で、PKはただただルールに則って進んでいきます。叶う/叶わないは、ほぼほぼあなたの祈りと関係がありません。

「叶うか?」という命題は、祈りにとって副次的なものです(本質でも何でもない)。人は、叶うから祈るわけではありません。ただ、祈るのです。気がつけば祈ってしまっている。神や仏や宇宙原理を信じていない人でも、望みを表現してしまう。空腹の時にラーメン屋から香りがただよってきたら、つばが出てくる。それと同じです。気がついたら、そうなってしまう。

これを踏まえた上で「祈りは叶うか?」と再度、問うてみましょう。結論的にいえば、ケースバイケースとしか言いようがないと僕は思います。祈ったって宝くじはあたりません。祈ったって空が飛べるようにはなりません。祈ったって、崖から飛び降りれば死にます。でも、何かを信じて祈れば、たとえばプラシーボ(プラセボ)的に病気が治る可能性はあります。ただの小麦粉を「薬です」と医者から渡されると、それを飲んだ患者の病気がよくなったりする。「信じる」ことで偽薬効果がでる。その意味で、信をもととする祈りに効果がないとはいえません。切迫した祈りでそうなることはある。大事なのは真摯で、切実で、嘘がないこと。僕は、そう思います。

祈りが叶うかどうかという命題が適用できる領域は、極めて狭いといえます。「絶対に祈りは叶う」という信念を適用してはならない場面は、結構あるものです(寝坊した時に祈っても、遅刻が免れられないように。また、祈りが司法試験合格の必要条件ではないように、色々ある)。むしろ日常のほとんどは、祈りの効能をあてはめようとすること自体が時にナンセンスになる要素で満ちています。その現実をしっかり見据え、何でもかんでも「祈ればいい」という発想に結びつけて物事のプロセスをブラックボックス化しないこと。それが大事です。祈りたいという衝動があった時に、すでに祈っている自分を確認する。そうやって、慎ましく祈りを捉えていった方がいいと思います。

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「絶対叶う祈り」「効果がある祈り」は、それでも日常にまぎれています。しかし、それはとても奇妙です。敬虔な信仰者は、日常と祈りを切り離しません。日常の振る舞いそのものが祈りであったりします。冒頭で紹介した、ザ・グロットのマリア像に祈った幼な子。その子は、母のもとからそこに駆けていく間も祈っていました。手を合わせる前の、マリア像に向かって走っているという行為それ自体も、祈りになっている。祈りは形式ではありません。「ようし、祈ろう」と端坐するだけが祈りのスタイルではない。僕は、日常の振る舞いが祈りになっている人が、篤い信仰者だと思っています。そういう人は大抵、叶う叶わないを気にしていません。

繰り返しますが、人は叶うから祈るのではありません。信者としての役得や功徳とバーターになるような祈り、叶う「から」という祈りは、むしろ見返りを求めて善人っぽく振る舞う人に似てしまいます。良いことが後々あるからやる、みたいな。それでは、ともすると祈りが「祈りのための祈り」になり、「日常生活の時間/お祈りタイム」といった二項になり、両者が断絶しかねません。構えて行う祈りに意味がないとは言いませんが(一日の中におごそかな時間があることは良いと思います)、その発想は、新自由主義じみた、「頑張った分だけもらえるぞ」的な自己責任論に堕ちる危うさを抱えています。それが、僕は気になる。

祈りは、対象化された時点で、何か嘘っぽくなるのです。もちろん純粋な信に支えられた、自然的な祈りもあります。ザ・グロットの幼な子は、マリアに抱いてもらいたいような気持ちで祈ったと思います。「奇跡よ、起きて!」と願ったでしょう。しかし、それとて「母の容体に悲愴し、何とかしたいと願う欲望」が出発点になっています。「母が厳しい容体だ。祈れば治る。だから祈ろう」ではなく、やむにやまれぬ思いが先にあって、もう祈っているのです。この順番が違うと、祈りは時に形式化し、惰性になります。

生活に溶け込んでいるもの、でも時に切迫する、それが"祈り"なのだと僕は思います。

[質問箱]
https://peing.net/ja/7d1eef526dd553?event=0

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