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[質問箱]真実と事実を見極める洞察眼を鍛えたいです。

とても難しいテーマです。昨日Twitterで「不正選挙」が話題になっていたようですが、東京都知事選の結果を受けて「不正があったのでは?」と思った人のタイムラインでは、恐らく、同選挙の行方がわからないと感じられるくらいに拮抗した形で"事実"が流れていたのでしょう。山本太郎さんが凄まじい人だかりのなか演説している風景などは、それはそれで事実です。それを見たユーザーは「もしかして、あるかも?」と思うわけですが、真実は小池百合子さんの圧倒的勝利でした。

事実と真実はイコールではありません。事実は、真実を反映する一側面にすぎない。私自身は、そもそも真実をつかめるのかどうかにすら懐疑的です。いまだに、そこはよくわからない。何かモノを書いても、いつも違和が残ります。ただ、わからないからといって「真実の追求、やーめた」とはしませんあくまで真実を求め続けます。そのベクトル自体が大切だと思うからです。

事実を正確につかんだからといって、真実に到達できるとは限らない。「群盲象をなでる」という比喩が、それをよく例えています。目が見えない数人の人たちが、象を知るために、象をさわるのです。象は大きいですから、ひとりひとりがさわれる箇所は限られています。ですから、ある人は象の脚をさわって「象とは丸太のような生き物である」と言い、ある人は鼻をさわって「象とは長い蛇のような生き物だ」と言い、ある人は耳をさわって「ぺらぺらのうちわみたいだ」と言う。これらは、どれも事実です。皆が事実を伝えている。ですが、どれも象の真実ではありません。そんな人たちが集まって象の議論をしても、「正しい象とは」という問いに決着はつきません。

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私たちが日常的にものごとを評価したり、真実を見極めようとする営みは、これに似ています。コロナ禍で感じた人もいるかもしれませんが、21世紀になって20年がたち、テクノロジーがこれだけ進歩しているのに、知性を結集して出てくるウイルス対策は、結構アナログでした。スペインかぜの時の対策にちょっとプラスがあった程度のことしかできないでいる。あたかもコロナウイルスを前にした人類のように、真実を前にしようとする人間は、あまりにも小さいのです。
  
それがわかった上で、あくまで真実を求め続けることを私は多とします。事実として正しいが、真実には至れない感じがする――。そんなとき、どう振る舞えば良いのでしょうか。

2つのベクトルがあると私は思っています。

一つは、思考をニュートラルにする、事実を可能な限りあるがままに見る、という意志、ベクトルです。これはブッダの教えの受け売りですけれど、ブッダはこう言います。「ひとつの見方に執着するな」と。ブッダは、「この事実が正しくて、真実を衝いている!」といった形で断言断定はせず、真実をありのままに見るために、おのれを絶対化・固定化しないでいろ、と言います。魚の骨が喉にささったような違和感をつねに抱いた思考状態で、物事にあたれ、割り切るな、と。これが、真実を可能な限り歪曲しないで見ることに役立ちます。

もう一つは、偏見をたくさん持つ、というベクトルです。偏見というと言葉自体に偏ったイメージを持つ方もいらっしゃるので、ここでは「臆見」と言い換えましょう(ググってね)。人は、ある事実に則して必ず臆見を持ちます。そのとき問題にすべきは、その臆見の数の"少なさ"です。単一の臆見で物事を見たら、すべてがその唯一の臆見に寄った見方になってしまいます。それこそ"偏"見です。そうならないように、どうせなら超・多種多様な臆見を持ってしまおうと。全方位から物事を照射できるくらい、あらゆる角度からの臆見を持とう、と。それが二つ目の提案です。そうなれば、やはり一つの事実への囚われや、真実から遠のくといった事態から離れることができます。

他にも色々な考えはあるでしょう。仏教ではこのことについて、龍樹あたりで面白い話が展開されていますが、今日はこれくらいで筆を置くことにします。

[質問箱]
https://peing.net/ja/7d1eef526dd553?event=0

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