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[書評]荒木優太編著『在野研究ビギナーズ』(雑誌掲載文・転載)

 本書は、大学に所属を持たない在野研究者15人が研究生活について綴った文をまとめた書である。アカデミズムに関心が強い私は、読中読後この本に大いに励まされた。と同時に、書き手たちが放つメッセージの社会的意義を(勝手に)考想もした。
 たぶん以下に書いたことは編著者・荒木優太さんにとって「ちょっと、やめてよ」と言いたくなる話だと思う。大仰で、(市場を多角的に観測している人にとっては)割かしあたり前だと思われる切り口でもある。しかし意外にも、改めて「それ」を述べている人が管見の限り見あたらなかったので、ビジネスメディア寄稿を生業とする私が、おせっかい的にビジネスの見方も盛り込みつつメッセージを語り直す。

 最近「睡眠用うどん」という寝具が流行っている。「寝る」といえば「布団」と相場は決まっていそうだが、同寝具を生みだした頭ほぐし専門店「悟空のきもち」は、開発の動機を専用サイトにこう書いた。

「新しい布団の開発依頼があったとき布団がベストとはまったく思えませんでした」

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 この一文からして「トンデモ」感が直感されるのだが、最近の一部ビジネス界ではこれがイノベーションの(またマーケティングの)好例と受け取られ、実際「うどんで寝る」は急速にブームの圏域を広げている。

 ヨーゼフ・シュンペーターを引くまでもなく、イノベーションは創造的破壊を伴う。イノベーティブな発想は本質をえぐる“破壊的な”問いを伏在している。そして、その問いの多くは「知と知のかけ合わせ」で生まれる。ゆえにイノベーションを求める企業の多くは、「専門に拘泥しない」知的回遊ができる時間や環境を用意して、「知と知の出合い」をつくろうとしている。「ダイバーシティ」というタームを旗幟にして、多様な人材を登用する向きが起こっているのもその関連事だ。

 ひと昔前、天下の「グーグル」が実施した「20%ルール」が話題になった。勤務時間の2割を「本業ではないプロジェクト」に費やすことを義務化したもので、イノベーションの源泉とされた。一見「何の役に立つの?」と思われる取り組みも、労働の一環として見做された。「効率」や「成果」を気にせず何かに挑戦できるバッファは、創造的な営為につながる。
 私は、そんな事態、つまり「偶然的な知の出合いが生まれやすいバッファ」がアカデミズムにも「より多く」もたらされることを望んでいる。もちろん研究の昂進を期待するからだ。

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 しかし、現状はそうなっていないようである。

 2004年、国立大学は独立行政法人になった。それまで国が配分してくれていたカネ(=運営交付金)は「官民の競争的資金制度への応募・そして審査を経て『調達』するもの」へと変わった。しかも2017年までに交付金は約1400億円減少している。そのため、当然ながら国立大学は年々小さくなるパイの奪い合いをしている。
 加えて、今の研究は「実学偏重」だとも指摘される。独立行政法人化がなされてちょうど10年が経った年、ジャーナリストの池上彰さんは「大学が実学的なカリキュラムを重視し、企業もITスキルや資格を重視した結果、日本からクリエイティブなサービスが生まれなくなった」(『池上彰の教養のススメ』趣意、2014)と書いた。
 国公立大の「文系学部廃止」報道が一部で炎上したことはご記憶の方も多いと思う。大学における研究事情をデルフォメした言説として広まった話だ。まさに「実学的」な、すぐに役立つ研究が尊重され、即効性が実証されにくい基礎研究、文系の研究が軽視される流れが鮮明化した。文系学部の研究に実学偏重の圧がかかっている実情は、たとえば哲学などを研究する三谷尚澄さんの著書『哲学しててもいいですか?』(2017)で嘆きとして示されている。

 アカデミズムは、研究費を調達するために即効的ですぐに成果が可視化される取り組みにウエイトを置かざるを得ない状況に追われている。

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 生物学者・大隅良典さん(ノーベル生理学・医学賞受賞者)はこう語った。
「今の時代に私が研究者を目指していたら、おそらくはじき出されていただろう」
「(私が)若い頃はなかなか論文を出せず、エリート街道を歩いた研究者ではなかったからだ。それでも余裕のあるいい時代だったので、自由に研究をやらせてもらい、同じテーマを長年続けてくることができた。しかし、現代の研究者はとてもそんな余裕を与えられていない」((  )は引用者)

 これは2018年2月10日号「週刊東洋経済」に出ていた言葉だが、その見開きページでは、ほか2人のノーベル賞受賞者の危機声明に似た文も掲載されていた。そこで大隅さん含め3人が必要を訴えたのが「余裕」、つまり研究環境のバッファだった。今の風潮では、日本のノーベル賞は将来、ゼロになりかねない、と。
 世界的な権威ある賞でなくても、このままでは学究におけるイノベーティブな着想は減っていくだろう。研究力の低下もすでに見える形になってしまっている(論文数の世界シェアや高引用論文数のシェアは主要先進国で日本だけが急落している)。実学偏重で、研究のバリエーションが極端に偏り、きっちり成果の出せる(示せる)人が適性のある人として研究職に就くようになれば、「偶然的な知の出合いが生まれやすいバッファ」が減少していくのはあたりまえだ。

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 さて、そこで登場したのが『在野研究ビギナーズ』である。荒木さんは、私のいう「バッファ」を別角度から照射し、「あさって」と表現した。彼はこう綴っている。
「明日の明日(つまり「あさって」)は二重の意味で到来する。知識不足や指導者の不在によって、その研究がなんの価値をもつのか、誰が評価するのか、正しいことを述べているのか、まったく見当もつかないのにそれでも突き進む頓珍漢でジグザグな方向として」((  )は引用者。もう一つの「あさって」の到来の仕方については本書を参照されたい)
 荒木さんは、アカデミズムにおけるバッファを再活性化する意義を「在野」に見ている。つまりそれはアカデミズムのカウンターではなくオルタナティブとしての意味である。既存の研究文化を「ぶっ壊す」といった考えではなく、むしろ「大学の再利用」も志向する。

 研究というと「博士が黙々独りでやっている」とイメージするかもしれない。しかし、多くの研究は集団でなされる。20世紀の科学史を変えた量子力学も、多くの物理学者が共同作業のようにして築き上げたものだ。そういった話でなくても、文理関係なく(この表現、私は好きではないが)、研究には基礎/応用研究者はもとより、研究環境をうまく回す人をはじめとしたさまざまな人的リソースが必要である。研究は団体戦なのだ。そして、その団体が多様な人で構成された時、研究は創発性を増す。

 荒木さんは、在野とアカデミズムを分け隔てるのではなく、むしろ交流させることを意図している。在野の学のススメが、終局アカデミズムに多様性をもたらすことも想像している(と思う)。だから在野研究の推進はアカデミズムの「カウンターではなくオルタナティブ」なのだ。

 在野研究は多様性の宝庫である。そもそも荒木さん自身が、研究に付随する既定的な目線ではつかまえられない。彼は学校が嫌いだった。勉強も苦手だった。大学進学も危ぶまれた。人とのお喋りも得意ではないらしい。だから、たぶん「学界政治」をうまく調整してアカデミックに活躍する素養は持ち合わせていない(と言ったら失礼だろうけれど、それとは別に、残念ながらアカデミズムは研究の当否だけで純粋に活躍できる世界でなく、処世上の思惑や出世への打算も時に必要とされるという事実がある)。

 でも、そういったキャラであっても在野なら頭角を現すことができる。荒木さんは在野研究という分野の強度を高める作法で自身の在野研究者としてのポジショニングもした。これは、「博士号があふれているのにポスト不足で行き場に悩んでいる」多くの学徒への福音にもなろう。

 「人皆、有用の用を知るも、無用の用を知るなきなり」(『[新訳]荘子』2013)と慨嘆した思想家ではないけれど、「役に立つかどうか」では測れない「無用の用」の価値再発見は、アカデミズムを憧憬する私も大歓迎する。イノベーションを欲するビジネスマンとしても大歓迎である。

「睡眠にうどん、使えたりして」といった一見ムダっぽい発想が許容される世界へ。と、本誌で書ける意義も深い(本誌寄稿者の星野健一さんが実は『在ビ』に登場する)。
 ぜひ、本書のご一読を。 (正木伸城)

[補]
・入手が難しかった2018年2月10日号「週刊東洋経済」をご寄贈いただいた東洋経済新報社・鈴木奏子さん他諸氏に厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。
・横書きのnoteでの読みやすさを高めるため一部表現を改めました。
・各データは執筆時の情報に基づきます。


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