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恋愛備忘録|「愛しています」

事実は小説よりも奇なり。
信じてもらえないようなことがいくつも重なり、
時間を共有するようになった彼とわたしの備忘録。
信じてもらえなくても、すべてノンフィクション。
ちなみに彼とわたしは付き合っていない。


「俺に深入りしないほうがいいよ」

 薄暗い車内で、静かに、彼が言った。

「うん、分かってる。でも、あなたを愛しています」

 助手席に座ったまま身体を捩り、彼を真っ直ぐに見つめながらそう返答すると、彼は困ったような、涙を堪えているような、でも喜んでいるような、なんとも形容し難い表情をして、わたしを見つめ返した。

 とても複雑でもどかしい生活を送っている彼は、恐らくもう長い間、誰からも「愛している」なんて言われていないのだろう。
 かく言うわたしも、つい去年まではとても複雑でもどかしい生活をしており、「愛している」なんて言葉とは縁遠い。なんならわたしの人生で、誰かに「愛している」なんて初めて言った。

 過去に恋人は何人もいたけれど「好き」止まりで、心の底から「愛している」なんて思ったことはなかったから、わたしに恋愛は向いていないのだろうな、と。漠然と思っていた。
 けれどなんとなく、彼に伝える言葉は、これしかないと思った。

 現状彼はわたしに「俺も愛してる」なんて無責任なことは言えない。わたしもその言葉を求めてはいない。

 それでもわたしを見つめる彼の目も、わたしの冷えた手を包む大きな手も、わたしの髪をひたすらに梳く指も、優しく合わせる唇も、全てからわたしへの愛を感じた。なんなら彼がわたしを愛していることは、とっくに知っている。
 心の中でわたしを想っていても、現実は複雑でもどかしく、その狭間で彼が葛藤していることは、すでに察している。

 彼は一ヶ月前、何の前触れもなく、突然わたしへの連絡を絶った。
 最初の数日は「何か気に障ることを言ってしまったかな」「怪我や病気だったらどうしよう」とそわそわしていたけれど、一週間が過ぎる頃になると「ああ、彼は今葛藤しているんだな」と唐突に理解した。「ああ、彼は今体調を崩してもいるな」とも思った。だからわたしは、彼をそっとしておくことを選んだ。

 不思議な話だけれど、何度も夢で見たのだ。彼が苦しげに顔を歪めている様子や、布団の中で蹲っている様子を。
 不思議な話だけれど、何度も直観があったのだ。例えば一日の終わりに湯船で一息吐いたときや、夜に布団に入って目を瞑ったとき。突然胸が疼いて、泣きたくなった。どんなにわたしが幸せな気分でいても、ふいにそうなり、数分で治まる。それはまるで、わたしではない「誰か」の感情が、流れ込んできたようだった。

 だからもしまた会える日がきたら、今まで誰にも一度も言ったことがない言葉を伝えようと思った。愛しています、と。

 全ての答え合わせができたのは、一ヶ月後のことだった。
 唐突に連絡が再開され、数日後にほんの少しの時間だけ車内で会うことになったのだ。そこで彼がこう言った。

「参った。久しぶりに高熱出して寝込んだ。このひと月、何度も優さんに連絡しようと思ったけど、していいのか悩んで、やめて、でも会いたくて、やっぱりもう会わないほうがいいって思うと結局連絡できなくて、でも会いたくて、そうしてるうちに風邪引いて熱が出て、ひと月も経っちゃった」

 知っていたよ、と。わたしは言わなかった。「大変だったね、お疲れ様、また会えて嬉しい」とだけ言って、彼に右手を差し出した。
 その右手に彼が自分の左手を絡め、「つめた!」と驚いて右手まで貸してくれた。

 彼が今できる精一杯の愛情表現を嬉しく思いながら、「ありがとう、あったかい」と頷いた。


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