見出し画像

ばあちゃんから知る自分が在る意味。

僕には自慢のばあちゃんがいます。
同居の祖母でした。
昔からたくさんの人と毎日楽しそうな祖母でした。
去年、83才の誕生日に自身の詩集を出した祖母です。

2020年9月18日
47年前に先立った僕のじいちゃんのもとに旅立ちました。
突然の旅立ちでした。
そのおかげか、旅立った姿は依然と変わらず、まあるく、優しい顔のばあちゃんのままでした。

亡くなって、ばあちゃんが書いてきたたくさんの原稿を読むことができました。
俳句、詩、エッセイ、新聞への寄稿、受賞作品、、
それらは全て晩年、自身の人生を振り返りそこでの出来事、感情、後悔、、たくさんの思いの詰まった文章でした。

画像1

ここに書くことは
谷村家の跡継ぎとして途絶えたくない
極めてプライベートな思いを残しておきます。
今いる親族や、これから増える家族と大切にしたい思いです。

ばあちゃんが守ってきた「谷村」

昭和32年
ばあちゃんは「谷村」に嫁ぎ、家業の機業に従事していた。
15年ほどして、夫(じいちゃん)は43歳に心不全で亡くなった。
36歳のばあちゃんは長男15歳(父)と小学6年、小学1年の3兄弟を抱えて、嫁いだ家で一人親となった。
僕の父は15歳で自分の父親の喪主を務め、以降弟の父代わりを務めてきた。

僕の憶測も混じるが
ばあちゃんが結婚した当時、「家業がある長男の家に嫁いだ」という環境は風当たりも厳しく、想像を絶する環境であったと思う。
ばあちゃんが書いたたくさんの文章の端端から当時の一つ一つの出来事に気持ちが潰れそうな苦労がたくさんあったと感じる。

以来、女手一つで
3人の息子を育て、
舅・姑と家業を続け、
舅の死後3代目として機織り業を継ぎ、
終戦、オイルショック、バブルを乗り越え、
町の雇用を生み、
新たに事業を転換し、
時代と共に機織り業を閉じた。

画像2


孫から見るばあちゃんはそんな苦労は一切知らず、
毎日楽しそうにたくさんの友人と多趣味でいろんな活動をしていた活発なばあちゃんだった。
ばあちゃんが36歳の若さで、子供3人を抱え、嫁いだ先で家業を引き継ぐ、どこかで心が持たず実家に帰っていたらもちろん今の僕もいない。

ばあちゃんの作品の中に度々書かれた心の支えがあった。
実の親(ひいじいちゃん)が贈った言葉
「運命を愛せよ、雪は花に先んず」
深い悲しみも、苦労も、葛藤も乗り越えた昭和の女性の力強さを感じた。

亡くなって知る。ルーツ。

3人の息子、9人の孫、田舎特有のたくさんの親戚。
ばあちゃんが亡くなって改めて、たくさんの親戚関係と出会う。
今までどのような繋がりか知る由もなかった親戚関係も辿った。
自分が生まれた町がどんな町だったのか、
自分が出た小学校はどんな小学校だったのか、

画像3

嘉永5年生まれのじいちゃん(僕のじいちゃんのひじいちゃん)
*嘉永っていつですか。。
が谷村を相続したときの戸籍が出てきて血を辿る。

たった一枚の戸籍から
自分の命の1ルートが見えてくる。
まだまだ自分の命の歴史ついて知らないことが多い。

物心ついて、久しく機会はなかったが
父や母、伯父たちと一緒に食卓を囲み、
昔話に笑いながら、
自分に流れる血を知り、
自分の命にかかるたくさんの先祖の思いを考える。

自分のことだけに生きた20代

僕自身
ばあちゃんからも父母からも
「あれをしろ、これをしろ」
「長男だから・・」も感じたことはない。
好き勝手、やりたいことに没頭させてもらえた10代20代。

32歳
今ばあちゃんが旅立って、知ることができたたくさんのルーツ。

今年のシルバーウィークは何にも仕事せずに
ただただ自分たちと向き合った。
今、この立場で仕事できてることも
たくさんのみなさんと繋がりがあることも
ただただ周りに生かしてもらっている。
と感じた4日間。

奇しくも、「敬老の日」が「葬儀」という不思議な日だった。
2020年の敬老の日は
先祖を遡り、
自分の命を再認識した日。

「谷村」を繋いできた
たくさんの先人たちに感謝と尊敬。
そして
ばあちゃんの孫であることと
谷村で命もらったことに結果だそうと思う。

まだまだお別れする気はなかったし
突然の別れに寂しさを否めないが
それ以上に、ばあちゃんからの力強いメッセージをもらえたと思う。
ありがとう。

合掌

この記事が参加している募集

自己紹介

こんな形でもたくさんの方と繋がれることに感激しています。是非仲良くしてください!